高天良山の高寺大権現
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 高天良山(高寺山)は、金山町福来、下呂町火打、白川町下佐美の境界にあります。江戸期の飛騨国中案内によると、福来村の項で、「飛州、濃州の堺山に高尾権現の宮森がある。宮には杉の良木が多く、殊に大木がある。権現へは、奥洞(福来村)より尾根道を一里余りで達する。」とあります。
 高尾権現とは、高天良山の山頂にあった高寺大権現のようです。また山頂から南西に約1kmの尾根上に高寺神社跡があります。大権現とは別に、ふもとの萬福寺の奥の院としての遥拝所もありました。大権現は、明治初年にふもとの白川町久田島に移されました(ぎふ百山)。
 高天良神社跡には福来地区の看板があり、次の解説(要約)がありました。高寺大権現は、神亀年間(724〜728年)、神亀山萬福寺の奥の院として泰澄大師によって開山されました。参道には、一丁毎に道標と仏像が安置されていました。高天良山付近のスギは、江戸時代、天領飛騨のころは御林山、維新後は御料林として厳重に管理され、高寺杉と呼ばれました。高寺杉は、京都妙心寺の造営のため伐採されました。また、この山には、黄金埋蔵伝説や天狗伝説等があります。
 ぎふ百山によると、高天良山では、ときどき天狗が大木を切り倒す音がしたといいます。(天ヶ岩大洞山伊吹山舟伏山阿寺天狗岳参照)
 かつて、旱魃のときには、ヒノキの良材をこの山から切りだし、御幣をたてて神に祈りました。そして、村中で大木を引き出して益田川に流しました。加子母村、白川町、東白川村一帯であった雨乞いの形式です。(ぎふ百山)(雨乞い棚山参照)
 山頂へは、火打峠から登山道があります。山頂の北側はヒノキの植林地、南側が落葉樹が茂っていて展望はありませんが、高寺神社跡で歴史をしのぶことができます。神社跡へは、山頂から西方へ約20分で行けます。
【文献】上村義満(1746):飛騨国中案内、大衆書房(復刻板)
岐阜県山岳連盟(1975):ぎふ百山、岐阜日日新聞社

高寺神社跡の標識(今はヒノキの植林地)
【登頂日】1997年11月30日など
【標高】908m
【場所】岐阜県益田郡金山町
【記録】11:40 火打峠 520m 12:40 山頂着 13:30 山頂発 14:03 火打峠