上城山の高堂城跡
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 国府町瓜巣の上城山の高堂城は、戦国期の飛騨の土豪、広瀬氏の城でした。室町時代天文年間(1532〜1555年)、広瀬左近将監利治がこの城を築きました。要害ですが不便なため高堂城を詰城とし、近くに広瀬城(田中城)を築き屋敷城としました。(飛騨の城)
 広瀬氏は、応安5年(1372年)から天正13年(1585年)の213年間、正史に表れ、中世領主の中でも長持ちをしました。また応永18年(1411年)、飛騨の乱が起きたとき、広瀬常登入道は、南朝方の国司、姉小路尹綱(まさつな、古川町)に味方をして尹綱とともに敗死しました(飛騨の歴史)。(本堂山参照) しかし、子の徳静入道は守護京極高光(足利氏)に味方したため、断絶は免れました。(飛騨の城)。
 その後、飛騨も戦国時代になり、広瀬宗域(むねくに)は、三木自綱(よりつな)と連合してして北飛騨(神岡町)の江馬輝盛を滅ぼしました。ところが松倉城中(三木自綱の居城、高山市)で広瀬宗域は謀殺されます(飛騨の城)。それから三木自綱は広瀬城に入りました。それもつかの間、天正13年(1585年)、秀吉の命を受けた金森長近により広瀬城が落城し、三木自綱は京都に敗走しました(ひだびとのあしあと)。そして高堂城、広瀬城は廃城となったわけです。(松倉山蕎麦角山尾城山参照)
 ふもとの瓜巣には、兵農分離以前を思わせる次の伝説があります。高堂城に広瀬という殿様がいた頃、城から餅をつく音が聞こえたため、田打ちの人々は、指図もないのに城に集まって餅をもらって食べました。その後、城では餅を蒸して「かいもち」をするようになり、餅をつく音はしなくなりました。また、次の田植え歌も伝わっています。「広瀬殿のおいでと言えば 地もゆるげ 木草もなびけ 所領もなびけ」(国府のむかし話)
 地図では南北2つ登山道がありますが、北側の道が残っています。山頂付近は城跡らしく平地が階段状になっていました。山頂には、県指定史跡高堂城跡を記す木柱があります。
【参考】森本一雄(1987):飛騨の城、郷土出版社
小島幸男(1987):図説飛騨の歴史、郷土出版社
飛騨教育史学研究会(1999):ひだびとのあしあと、岐阜新聞社
国府町教育委員会:国府のむかし話、国府町教育委員会 

山頂からの広瀬郷(国府町広瀬町)
【登頂日】2002年5月5日
【標高】778m
【場所】岐阜県吉城郡国府町
【記録】10:50 瓜巣林道(送電線下) 11:30 山頂着(南ルート) 13:25 山頂発(北ルート) 14:05 瓜巣林道(送電線下)