二十五山の濃霧と円空仏
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 神岡の町の東方、神岡鉱山の真上にあるのが二十五山です。飛騨国中案内では、「二十五の菩薩御座す故二十五の山と云う」とあります。
 その由来は、六部という修行者が、石を集めて二十五菩薩に見たて、この山に供養したことに始まります。霧を退散させるためでした。(山里のいのり) その後、江戸時代、貞亨の頃(1684〜1687年)、奇僧円空が、二十五体の菩薩を作り山頂にお祀りしました。山頂一帯で濃霧が発生し付近の農作物が不作となったためです。(飛騨の史話と伝説) これらの菩薩(県重文)は、山麓の和左保の光円寺にあります。地元では、鹿間村の源蔵が二十五山(峰鬼山)の霧に迷って、反対側、山之村の伊西村に降りた伝説もあります。(神岡のむかし話)(高賀山漆山岳安房山参照)
 実際、神岡の町から北側、東側の標高1,000m以上の稜線にはよく雲(霧)がかかります。その雲は、ふもとに寒気と強風をもたらす場合、その後の晴天につながる場合の2通りあります。富山県の海洋側の大気と、岐阜県の山岳側の大気の境界にできる雲とも考えられます。地元では笈破霧(おいわれぎり)といいます。山間の盆地霧とは成因が異なるようです。(二ツ森山参照)
 東雲(あずも)、切雲谷(霧雲谷、きりもだに)等の地名は、この雲に由来すると推測します。(斐太後風土記:東雲については、由来不詳とした上で他地名の事例と比較して、戦国期の領主、江馬氏の家臣名に由来するのではないかと推測しています。)円空の和歌に、「在(あり)かたや アすも(東雲)の里の 燈(ともしび)ハ 渡津(わだつ)の海の 神かとそ(ぞ)思う」(円空の和歌)があります。
 神岡鉱山も閉山になり、一部で採掘されているだけです。栃洞、鉱山神社の裏から斜面を直登しました。カラマツ、ウリハダカエデ等の雑木の間を登ります。山頂は、鉱山の露天掘りのため平でした。そして日本列島の土台、飛騨片麻岩(一部は6億年以上前の変成岩)のかけらがいっぱいありました。神岡鉱山は、飛騨片麻岩の中にできた鉱床です。
【参考】上村義満(1746):飛騨国中案内、大衆書房(復刻板)
土田吉左衛門(1962):飛騨の史話と伝説(吉城郡の部)、北飛タイムス社
神岡のむかし話編集委員会(1980):神岡のむかし話、神岡町教育委員会
岐阜県歴史資料館(2002):円空の和歌(うた)、岐阜新聞社
宮川村自分史をつづる会(1996):山里のいのり、宮川村教育委員会
富田礼彦(1873):斐太後風土記(下巻)、雄山閣(復刻版)

山頂から乗鞍岳
【登頂日】2002年5月3日
【標高】1219m
【場所】岐阜県吉城郡神岡町
【記録】10:50 鉱山神社入口 11:40 山頂着 13:30 山頂発 14:05 鉱山神社入口