井出の小路山の大ヒノキ
山語り目次  地図検索
 井出の小路山は、阿寺山地の中でもとりわけ奥深い山です。そしてこの山ふところには、樹齢500年を越える木曾5木の巨樹が林立しています。木曾5木とは、ヒノキ、アスナロ、マキ、サワラ、ネズコです。この山を管理する尾張藩は、お留木の制度を定め、これらの樹木の伐採を厳しく禁じてきました(三国山白草山吐月峰高屹山参照)。 現在もこの樹林は、営林署の「ヒノキ材木遺伝資源保存林」として保護されています(高森山参照)。
 江戸時代(天保9年、1838年)、幕府の命令により尾張藩は、井出の小路山のヒノキ材を伐採することにしました。江戸城西之丸が全焼したからです。幕府再築御用掛の川路聖謨(としあきら)は、天保9年4月から7月まで井出の小路山などの木曽山を巡視しています。
 史実は以上ですが、莫大な村費を必要とする木材切り出しは、地元民にとっては負担以上の何物でもありませんでした。そこで巡視中の川路聖謨の耳に奇怪な霊異の風評が入りました。しかし、聖謨は「信じがたきこと」と片付けています。ついに風評は、幕府の権力に対する地元民のいきどおりの現れとして、付知峡の入り口にある護山神社の創建につながりました。それは次のような話として伝わっています。
 尾張藩は、村人が「井出の小路山の大ヒノキ」と言って崇めていた村はずれの木を伐採しようとしました。ところが、このヒノキを1日では切れないので、次の日また切ろうとすると切り口が無くなって元に戻ってしまいます。困っていると、通りがかりの老婆から、「おがくずや切りくずを燃やしてしまえばよい」と聞き、木を切ることができました。そのあと、役人の詰め所やそま人の小屋が火事で焼けてしましました。そして、「大ヒノキの精である老婆が、犠牲になってこの山を守った」とうわさが広がりました。 (三界山参照
【参考】岐阜県小中学校長会(1970):美濃と飛騨のむかし話、岐阜県小中学校長会館
人文社観光と旅編集部(1990):郷土資料事典(岐阜県)、人文社
吉岡 勲・後藤時男(1974):美濃・飛騨の文化財探訪、大衆書房
付知町(1974):付知町史通史編・史料編、付知町

井出の小路山に林立するヒノキ、サワラの美林
【登頂日】1996年6月16日
【標高】1840m
【場所】岐阜県恵那郡加子母村
【記録】7:20 林道入り口 7:43 千両のぞき 8:05 真弓峠分岐 8:15 出の小路橋着 8:30 出の小路橋発 8:40 合体木 9:00 美林橋 9:57 空沢橋(空谷、ここから林道を離れる) 11:00 1520m(わき水) 11:40 1680m(笹薮)11:55 1730m(コル) 12:10 南峰三角点着 12:15 南峰三角点発 12:25 1730m(コル) 13:00 山頂着 13:45 山頂発 14:05 1730m(コル) 14:35 1520m(わき水) 15:16 空谷入り口 16:15 美林橋 16:35 合体木 16:45 出の小路橋 17:00 真弓峠分岐 17:20 千両のぞき 17:45 林道入り口