信州・濃州・飛州の山・三国山
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 飛騨、美濃、信濃の境の三国山(みくにやま)はかつて三浦山でした。三浦山は、御厩野(下呂町)、小郷(加子母村)付近の飛騨美濃国境付近の山として古文書によく出てきます。また尾張藩の所領のころ、三浦山は樹木の伐採を禁ずる「お留山」でした。(井出の小路山参照)
 飛騨国中案内(延亨元年、1746年)によると、「御厩野(みまやの)の東に三有峰山(みうれやま)という大山があり、信州・濃州・飛州三国へ1つの山が分かれている。」といいます。「うれ」は山頂を示す古語で、水源の意味があります(山の名前で読み解く日本史、西水源山参照)。すると、当時の三有峰山(三浦山)は、今の三国山付近だと判断できます。
 一方、みうれの「み」は、御嶽の遥拝所としての御山(みうれ)であり、今の拝殿山が三浦山だとする考えもあります(谷、2003)。その理由は、鎌倉時代、三浦山中に拝殿を作ったという記録があるからです。(拝殿山参照)
 別に濃州徇行記(江戸時代の寛政年間、1800年頃)の三浦山登山記録によると、尾張藩士は三国山から北に続く飛州・信州の国境稜線を歩いています。
 以上を合理的に考えると、三浦山の範囲は、時代とともに変わったのではないでしょうか。つまり、その範囲は、拝殿山付近から三国山付近に変わり、やがて尾張藩の管理する三国山の北方、信州側の山域に変わったと推測します。江戸時代後期には、信州側の滝越に隠れた三浦一族(鎌倉時代の執権北条時頼に滅ぼされた)と三浦山の山域が一体化したわけです。
 斐太後風土記(明治5年、1873)では、三国の境(今の三国山)は鞍掛山です。そして飛騨山川(明治44年、1911年)には、三浦山から信州王滝に通ずるとあるので、明治44年ころまで、飛州・信州国境付近の山として三浦山の名が使われ、三国山は鞍掛山ともいいました。明治以降、地図作成のとき、三浦山の場所として御岳の信州側支峰が与えられた結果、昔のことを知る人がいなくなった現在、三浦山は地図上の位置で確定してしまいました。(白草山参照)
 民俗学の柳田國男の紀行文(明治40年5月)によると、「滝越は十七戸、−−−三浦は此奥山の総称なり。全村皆三浦氏なり。相模の三浦の残党というも旁証なし。−−−ごみ沢を上りきりて、三国山の頂上より八町北に出づ。美濃飛騨の山の額百ばかり遠近に見ゆ。処々の煙。」とあります。また彼は、尾根上に数十の塚を見て、「何れの時代にか国境を定めたるものなり。」と述べています。そして、国境を越え竹原川の源頭に降りたちました。明治後期には、まだ三浦山が滝越を取り巻く信州側の山の総称だったことがわかります。
 現在三国山へは道がありません。しかし下呂町御厩野から信州に抜ける鞍掛峠から登れます。峠から数えて下呂側、1番目の林道のカーブから山道があります。この道をしばらく行き、上方が切れて明るくなったところから道をはずれ稜線に上がります。笹薮が枯れた場所に出るので、高みに向かって枯れた笹を踏みこむと山頂です。
【参考】上村義満(1746):飛騨国中案内、大衆書房(復刻板)
樋口好古(1800頃):濃州徇行記、大衆書房(復刻版)
富田礼彦(1873):斐太後風土記(下巻)、雄山閣(復刻版)
柳田國男(1909):木曾より五箇山へ、文章世界(近代日本紀行文学全集、ほるぷ出版)
岡村利平(1911):飛騨山川、大衆書房(復刻版)
日本山岳会東海支部:(1996):続山旅徹底ガイド、中日新聞社
岐阜県山岳連盟(1975):ぎふ百山、岐阜日日新聞社
谷 有二(2002):山の名前で読み解く日本史、青春出版社
谷 有ニ(2003):山名の不思議、平凡社

山頂からの小秀山
【登頂日】1997年1月12日など
【標高】1611m
【場所】岐阜県益田郡下呂町
【記録】9:17 林道1340m地点(このときは、積雪のため自動車はここまででした。) 10:07 林道カーブ(入り口植林道) 11:10 山頂着 12:16 山頂発 12:50 林道カーブ(入り口) 13:10 林道1340m地点