六厩(むまい)の焼畑と火山(ひやま) |
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火山(ひやま)は、国道156号線沿(高山街道)の荘川村六厩(むまい)とせせらぎ街道(郡上街道)の清見村西ウレ峠の間にあります。その名前は、焼畑に因んだ名前とされます。(地名雑考)(捨薙山、竜ヶ峰、猪臥山、無反山、蕪山参照) 六厩には、越中白川方面に抜ける街道(高山街道)の馬継場の厩がありました。岐阜百山によれば白川奇談からの引用で、「岡田(大野)長者という富豪があり、六つの厩が谷川をへだててあったところから地名が出た。」といいます。源流をたずねてVによると、この6軒の厩は西暦1500年にはすでにあったという記録があります。 また六厩は、天正年間(1573〜1592)から金山で栄えました。斐太後風土記では、「天正晩年、茂住宋貞が人をたくさん入れて掘った。溝も、石垣も、石臼もたくさん残っている。」と記してあります。荘川村史によれば、金山が最も栄えたのが、慶長・元和(1596〜1623)頃で、千戸の鉱山街があったとされる千軒平という地名が残っています。(国見山参照) 六厩の東にある夏厩(なつまや)も焼畑地名です。夏厩は、夏の間に山間の傾斜を焼いて畑を開いたり、馬を飼うことによります。(岐阜県地理地名事典) ただし、斐太後風土記の夏厩の項では、夏草を乾燥させて冬の馬の餌(稗糠や稗殻)に混ぜたことに因むといいます。その厩の堆肥を田畑に用いると、穀物が豊熟したので他村から羨ましがられ夏厩村となったと記してあります。また、六厩の人に聞いてみると、岡田長者が夏になると馬を放牧した場所が夏厩とされます。 ところで、民俗学の柳田國男は、飛騨を旅して六厩で次のような文章を残しています。明治40年6月3日のことでした。「六厩には焼畑多し、此あたりにては薙(なぎ)と云う。此地は既に荘川村の内なり。軽岡峠にかかり雷雨に遭う。板を頭に乗せて雨をしのぐ人を見る。−−−」 彼はまた、薙畑で麻をつくることを聞いたり、荘川に鱒を捕る竹籠を掛けてあるのを見ています。(木曾より五箇山へ)(高登山参照) 蛇足ながら、六厩は、岐阜県のアメダス観測所の中で最も低温を記録する場所でもあり、当然稲作は不可能な土地柄でした。 火山へは、西ウレ峠側から登りました。峠の高山側の林道終点(枝分かれしている新しい林道には入らない)から山道があります。しかし、林道は難路。尾根直下では、少しだけですが身の丈以上の笹薮に突入します。山頂は広くて、ダケカンバやブナの林です。葉の落ちた樹間から、御岳、乗鞍、白山、川上岳、位山、船山が見えました。 【参考】富田礼彦(1873):斐太後風土記(上巻)、雄山閣(復刻版) 柳田國男(1909):木曾より五箇山へ、文章世界(現代紀行文学全集、ほるぷ出版) 山内和幸(1977):地名雑考、岐阜地理、第16号、岐阜地理学会 岐阜地理学会(1978):岐阜県地理地名事典、地人書房 岐阜県山岳連盟(1975):ぎふ百山、岐阜日日新聞社 荘川村史編集委員会(1975):荘川村史(上巻)、荘川村 吉村朝之(2003):源流をたずねてV、岐阜新聞社 |
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山頂から川上岳方面 |
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【登頂日】1998年11月8日など 【標高】1379m 【場所】岐阜県大野郡荘川町(清見村) 【記録】11:52 西ウレ林道終点 12:17 山頂着 13:13 尾根道散策 13:30 山頂 13:50 西ウレ林道終点 |