神々の涙 カルマと輪廻転生の摂理 

神々の涙 カルマと輪廻転生の摂理
  神からのギフト出版会 黒木昭征著

 

抜粋なので詳細は本を読んでください。

 

人生のいろいろな出来事はすべてにそれなりの訳があり、決して偶然の結果ではなく必然の結果なのです。いわゆる「原因と結果の法則」が厳然として働いているのであり、原因なしではいかなる結果も生じません。自分が創った原因があるから、目の前に結果が顕れたのです。P14

 

ここで「神」という言葉を解釈しておきます。
15ページに、ちなみに、「神」とは、絶対神、宇宙神、創造主、大霊、大愛などとも呼ばれますが、別名「法則」と称されることもあるのです。間違っても、宗教などで言うところの「人格神」ではありません。キリスト教で教えるような、宇宙の中心の玉座に座り、その傍らに神の子イエスを従えている----そんな「神」は子供の絵本の中のお話です。P15

 

その法則の中でも、私たちの地上生活に大きく関わるものとしては、次の4つが挙げられます。
 ・輪廻転生の摂理
 ・波動の法則
 ・陰陽の法則
まず「カルマの法則」とは、因果律とも呼ばれる法則です。簡単に申しますと、イエスが説いたように「あなたが蒔いた種がいつか芽生えて実り、その穂をあなたが刈り取る」という因果律です。そして私たちは、この地上界と霊界とを行ったり来たりしながら、それぞれの魂を成長させています。つまり、生まれ変わりながら人間界の卒業を目指しているのです。その「輪廻転生の摂理」も、人生にとって大きな影響力を持っています。その他にも、「波動の法則」別名「調和の法則」があります。これはわかりやすく言いますと「類は友を呼ぶ」ということです。これもまた人間関係などに大きく影響を与えることになります。P15、16

 

「カルマの法則」とは、あらゆる人間の行為を支配している因果律、即ち「原因と結果の法則」の作用反作用を表していて、別名「償いの法則」とも言われています。しかも、その原因については「身口意の三業」(しんくういのさんごう)と言われるように、身体での行為に限らず、口で行う業、意(心)が為す過ちまでも斟酌されていきます。身体で他人を傷つける、あるいは口で人を罵ったり、侮辱したりするのが業になるというのなら理解もできるのですが、でも他人様に悪意を持ったり、体の不自由な人にさげすみの目を向けるだけでも業(カルマ)になるというのですから、これはもう大変ですよ。P18

 

皆さんは、思念・想念なんて、ただその時に心に浮かんだだけのことで、その後はただ風のように消え去ってしまうものだと思っていることでしょうが、イエ、そんなことはありません。想念もいわゆる一つのエネルギーであり、幽界でも霊界でも、その想念に相応しい知的生命体を創り出しているのです。-------
このように、悪しき想念体は、特に幽界の下層辺りに多く存在し、好ましくない影響力を、幽界や、ときに地上の私たちの世界でも発揮しているものです。世間でよく言われる”生霊”(いきりょう)というのも、この類になります。P18

 

「あなたが蒔いたものをあなたが刈り取る----それがカルマの法則です」
他人に対して苦しみを蒔くならば、それは自分自身の裡に苦しみを蒔いていることになるのです。P31

 

私たちがこの地上生活を終えて霊界に帰った時、まず落ち着く境涯はどこになるのでしょうか?
その後、私も真理を深く学んだ今では別な解釈をしています。
それは私たちが亡くなるときに到達していた霊性と同等の霊界へ還るということです。P32

 

カルマの執行停止あるいは猶予については、シルバーバーチの次の言葉が思い出されます。
“神はあなたの肩に背負いきれないほどの荷は載せない。もしも今、まだその荷を背負うのが無理だとしたら、あなたの魂が背負えるようになるまでそのカルマの執行の時は延ばされる” P36

 

親子のカルマ
霊的に観れば、親はその子供を所有しているのではありません。創造したわけでもありません。ただ単に子供を地上に呼ぶために遺伝子を貸したにすぎません。両親とは、霊魂が肉体に宿るための水路なのです。また、たいていの場合、両親のどちらかと子供の間には前世からの絆があります。時には、その家庭的事情がその子の心理的な要求にかなった環境を提供しています。また、リーディングでは、生まれてくる子供は両親を選ぶ自由があることを示唆しています。しかし、この選択の自由は、時として幼児死に至る場合があります。生まれてくる霊魂は、これからの自分が置かれる環境や出来事などをある程度予見して両親を選択するものですが、しかし両親にも自由意志がありますから、時には期待外れの場合があります。そうした場合には、子供の霊魂は自分の目的が達成されないことを悟って地上から退去してしまうのです。P89

 

リーディングでは、妊娠の瞬間と霊魂が入る瞬間が一致しないと何回も断言しています。霊魂が肉体に宿るのは誕生の少し前か、誕生後少し経ってからか、誕生と同時かであるといいます。また、ある場合には、入ってくる霊魂が最後の瞬間に代わることもあるというのです。それだけに、妊娠中の心の持ち方が呼び寄せられる霊魂のタイプをある程度に決定するので、妊娠中の思いには注意しなければなりません。P90

 

エドガーケイシーのリーディングでは、霊魂が肉体に宿るのは、
「誕生の少し前か、誕生後少し経ってからか、誕生と同時」と言っているが、シルバーバーチは下記のように言っている。

 

『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)P173
霊としてのあなたは無始無終の存在です。なぜなら霊は生命を構成するものそのものであり、生命は霊を構成するそのものだからです。あなたという存在は常にありました。生命力そのものである宇宙の大霊の一部である以上、あなたには始まりというものはありません。が、個体として、他と区別された意識ある存在としては、その無始無終の生命の流れの中のどこかで始まりをもつことになります。受胎作用は精子と卵子とが結合して、生命力の一分子が自我を表現するための媒体を提供することです。生命力はその媒体が与えられるまでは顕現されません。それを地上の両親が提供してくれるわけです。精子と卵子が合体して新たな結合体を作ると、小さな霊の分子が自然の法則に従ってその結合体と融合し、かくして物質の世界での顕現を開始します。私の考えでは、その時点が意識の始まりです。その瞬間から意識をもつ個体としての生活が始まるのです。それ以後は永遠に個性を具えた存在を維持します。

 

『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)P53
(霊は妊娠中のどの時期に宿るのか)
 異議を唱える方が多いことと思いますが、私は二つの種子(精子と卵子)が合体して、ミニチュアの形にせよ、霊が機能するための媒体を提供したとき、その時が地上生活の出発点であると申し上げます。

 

『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)P62
(霊魂はどこから来るか)
 あなたのご質問には誤解があるようです。あなたがた人間が霊魂をこしらえるのではありません。人間がすることは霊魂が自我を表現するための器官を提供することだけです。生命の根源である"霊″は無限です。無限なるものに個性はありません。その一部が個体としての表現器官を得て地上に現れる。その表現器官を提供するのが人間の役目なのです。霊は永遠の存在ですから、あなたも個体に宿る以前からずっと存在していたわけです。しかし個性を具えた存在、つまり個体としては受胎の瞬間から存在を得ることになります。霊界にはすでに地上生活を体験した人間が大ぜいいます。その中にはもう一度地上へ行って果たさねばならない責任、やり直さなければならない用事、達成しなければならない仕事といったものを抱えている者が沢山います。そして、その目的のためのチャンスを与えてくれる最適の身体を求めているのです。

 

『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)P109
(自分で人生を選んで生まれてくる) 
  地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につけるうえでそのコースがいちばん効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択するのです。その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを承知のうえで生まれて来ているのです。その人生を生き抜き困難を克服することが内在する資質を開発し、真の自我ーーより大きな自分に、新たな神性を付加していくのです。
 その意味では "お気の毒に・・・・" などと同情する必要もなく、地上の不公平や不正に対して憤慨することもないわけです。こちらの世界は、この不公平や不正がきちんと償われる世界です。あなた方の世界は準備をする世界です。私が "魂は知っている" と言う時、それは細かい出来ごとの一つひとつまで知り尽くしているという意味ではありません。どういうコースを辿るかを理解しているということです。その道程における体験を通して自我が目覚め悟りを開くということは、時間的要素と各種のエネルギーの相互作用の絡まった問題です。例えば予期していた悟りの段階まで到達しないことがあります。するとその埋め合わせに再び地上へ戻って来ることになります。それを何度も繰り返すことがあります。そうしているうちにようやく必要な資質を身につけて大我の一部として融合していきます。

 

 

『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)P46
(受胎の瞬間から霊が宿り、そこから個性が発達していくのか)
 個性という用語を持ち出されるとまたややこしくなります。生命は霊であり霊は生命です。両者は二つにして一つです。受胎と呼んでいるものは、そこに生命があるということを意味します。受胎がなければ生命は存在しません。したがって霊は受胎の瞬間に物質に宿ることになります。
 その後の発達の問題ですが、これは環境条件によって異なりますのでさらに問題がやっかいです。受胎時に宿る霊も、霊としてはそれまでずっと存在していたのです。ですから、個性の問題は、その個性よりはるかに大きい霊全体のどの部分が表現されるかの問題となります。

 

『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)P47
(受胎後のどの段階で人間となるのか)
 受胎の瞬間から生命が存在し、したがって霊が存在します。流産とか中絶とかがあっても、それは生命を破壊したことにはなりません。その生命の表現の場をあなた方の世界から私たちの世界へと移しただけです。

 

 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)P47
(子宮内の生命もれっきとした人間なのか)
 潜在的には受胎の瞬間から人間であり、人間性のすべてを宿しております。受胎の瞬間から身体的機能のすべてを潜在的に宿しているごとく、霊的機能もすべて宿しております。霊的機能が存在しなければ身体的機能も存在しません。物質は霊の影だからです。

 

エドガーケイシーが妊娠中の女性へアドバイス
あなたが欲しいと思う子供のタイプによります。もしも音楽の才能がある芸術的な子供を欲しかったら、音楽や美や芸術について考えなさい。またどうしても機械的な人間が欲しいと思うなら、機械のことを考え、機械をいじりなさい。そんなことをしても効果がないなどと考えてはなりません。ここにすべての母親が知らなくてはならないことがあります。それは、妊娠中の態度は、その両親を水路として生まれてくる霊魂の性格と非常に関連があることです。P91

 

人間の苦悩の中でも最も痛々しいのは、心身の不自由な子供を産んだ苦悩でしょう。------異常なるものにはどんなものでも、たいていカルマが関係しているものです。生まれながらの不自由は、何らかの前世のカルマの暗示しています。また、親とその不幸な子供との関係にも、ほとんどカルマが関係しています。P91

 

不自由な子供を授かったご両親へ
すべての不自由は、生まれてきた子供さんが神と約束してきたことなのです。世間で言われるような、「親の因果が子に報い」ではないのです。スピリチュアリズムで説く「カルマの法則」とは、すべて自分の行ってきたことを問われるものであって、たとえ親やご先祖に大きなカルマがあったとしても、そのカルマはそれぞれの人たちが自分で支払うべきものなのです。それを子孫が背負うなどとは摂理に反するものです。私たちは、両親やご先祖様の血を引きついてはいますが、それはあくまでも肉体遺伝子を引きついただけのことであって、霊的に観たら他人の魂同士なのです。それがたまたま今回は家族としての約束をして、この地上に降りてきただけです。今回の人生が終わったら、次にはまた別な肉体遺伝子を求めて、新たな家族関係のもとに生まれてくることになります。それなのに、世間では子どもの心身の不自由は、両親のせいであると勘違いしています。特に母親の責任として、時には嫁ぎ先の義理の両親や親族までがお嫁さんに冷たい視線を注ぐことがありますが、これだって摂理を知らないための完全なる無理解なのです。P165

 

暗黒界、つまり日本的に言えば地獄界ですが、そこは残忍な人たちが強制的に隔離されて、己の気持ちに気づくまで留め置かれる矯正の境涯です。ですから、暗黒界に絶対存在しないのが次のようなものになります。
・光---つまり暗い闇の世界です。
・芳香---暗黒界は悪臭の世界であり、芳しい香りなど一切ありません。
・子供たち---暗黒界は地上の刑務所と同じで、矯正の場です。その点、子供たちは何も過ちを犯していない穢れ無き魂なのですから、矯正する必要もないのです。ですから、暗黒界には子供たちはおりません。
動物たち---動物たちもまた穢れ無き生き物ですから、反省する必要もありません。ただ、暗黒界での戦争に馬が登場しますが、これは弱い立場の人霊が無理やり馬に変化させられただけのことです。
・植物と樹木---暗黒界は岩と石ころだらけの、花も咲かない世界です。P168

 

情けの呪縛
これが意外かもしれませんが、家族愛、夫婦愛などの、善意にかかる感情から迷い霊となってしまう場合があります。情けというものは人間世界の付き合いでは大事な要素ですが、これがまた、クモの糸のように粘着性が強くて、地上界を去る時の厄介な障害となります。いわゆる相手を思うがゆえに成仏しがたくなるのです。例えば、遺した家族のことを心配するあまり、その家に居残ってしまう場合があります。あるいは、亡くなった本人にしたら善意から、その家の守り神になったつもりで居残る霊もおります。
人間死んだらまずは霊界に還って、今生での自分の生き方を守護霊や指導霊、高級霊たちと一緒に総括し、そこで反省すべき点があったら反省し、間違った意識は正すべきなのです。そのうえで尚も家族のために尽くしたいと願うのだったら、自分の指導霊にお伺いを立てて、その許可を得てから地上に降りてきて、家族の指導霊となるのが本当の筋道です。それが、個人の独断で地上に居残ってしまい、家族を守護しているつもりでいるとしたら、それは絶対神へとつながる正しい霊界の機構の一員とは申せません。単なる情に縛られただけの、無知な迷い霊・はぐれ霊にしか過ぎないのです。あるいは遺された家族があまりにも悲しみますと、その悲しみの感情はそのまま亡くなった人に伝わりますから、それで後ろ髪を引かれるような想いで成仏できなくなってしまうこともあります。遺された側があまりにも強い憐憫(れんびん)の情けに駆られてしまっている場合を霊視しますと、「悲しみの情け」という荒縄が、亡くなった人をがんじがらめに縛り付けているのだそうです。P210

 

「類は友を呼ぶ」という言葉があります。波動の法則に従って、似た者同士が集まる世界、それが霊界です。わかりやすく言いますと、あなたが還る霊界の境涯は、あなたとそっくりの性格や考え方の人たちが集まっているところです。P214

 

高額な法名・戒名を頂いたから自分は高みの世界に行けるはずだと思うのは、残念ながら勘違いです。高額な法名代・戒名代は僧侶たちの懐を潤すだけのことで、魂の浄化には何の関係もありません。自分は生前に「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」を一生懸命唱えていたから、極楽浄土に阿弥陀如来様が連れて行ってくださるというのも、とんだ期待外れです。P217

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