シルバーバーチの霊訓  この世あの世生きる霊

真理 法則 生きる 霊界

 

 (祈りが聞き届けられるかどうかは)祈りの動機と祈る人の霊格によります。ご承知のとおり宇宙はすみからすみまで法則によって支配されており、偶然とか奇跡とかは絶対に起こりません。もしもその祈りが利己心から発したものであれば、それはそのままその人の霊格を示すもので、そんな人の祈りで病気が治るものでないことはいうまでもありません。ですが、自分を忘れ、ひたすら救ってあげたいという真情から出たものであれば、それはその人の霊格が高いことを意味し、それほどの人の祈りは高級神霊界にも届きますし、自動的に治療効果を生む条件を作り出す力も具わっています。要するに祈る人の霊格によって決まることです。  シルバー・バーチの霊訓(6)P46

 

シルバー・バーチの霊訓10 P62-63
 《肉体が地上で永らえる年数を長びかせることは神の計画の中にはありません。リンゴが熟すると木から落ちるように、霊に備えができると肉体が滅びるということでよいのです。ですから、寿命というものは忘れることです。長生きをすること自体は大切ではありません。地上生活のいちばん肝心な目的は、霊が地上を去ったのちの霊界生活をスタートする上で役に立つ生活、教育、体験を積むことです。もし必要な体験を積んでいなければ、それはちょうど学校へ通いながら何の教育も身につけずに卒業して、その後の大人の生活に対応できないのと同じです。》

 

 

 《時として人生が不公平に思えることがあります。ある人は苦労も苦痛も心配もない人生を送り、ある人は光を求めながら生涯を暗闇の中を生きているように思えることがあります。しかしその観方は事実の反面しか見ておりません。まだまだ未知の要素があることに気づいておりません。
 私はあなた方に較べれば遥かに長い年月を生き、宇宙の摂理の働き具合を遥かに多く見てきましたが、私はその摂理に絶対的敬意を表します。なぜなら、神の摂理がその通りに働かなかった例を一つとして知らないからです。こちらへ来た人間が“自分は両方の世界を体験したが私は不公平な扱いを受けている”などと言えるような不当な扱いを受けている例を私は一つも知りません。》  霊訓1 p47

 

 

人間の一人一人に神の計画があるのです。偶然の事故、偶然のチャンス、偶然の一致というものはありません。すべてが大自然の摂理によって動いており、そこには奇跡も摂理への干渉も有り得ません。摂理そのものが完璧にできあがっているのです。なぜなら完全な叡智によって生み出されているからです。

 

 

心霊治療家M・H・テスター  ↓
@霊魂及び霊的世界が存在し、死後にも人間の個性は存続する。
Aこの世(現世)とあの世(霊界)は交渉可能で、両者は相互作用を営んでいる。
B霊魂はそれぞれ永遠に進歩向上する。
人間生活には完ぺきは望めない。人間のすることなどいい加減なものばかり。
だから人間はいい加減なところでの妥協が大切になってくる。それができない人間は不幸である。
常に明るく積極的で楽天的な考え方をする心は、健全なる身体を作る。
健康であるということは地上の生命として自然な状態にあるということ。そうでない状態はみな不自然なのである。
過去はもう過ぎ去ってしまった。過去に起きたことは何一つとして変えられない。愚かなこともし、馬鹿なことも言い、過ちを犯し、しくじりもした。が今更どうしようもない。今できることは、そうした体験から教訓を学ぶことだ。悔んだり残念がったりして、無駄な時間を費やし心を痛める愚かなことはやめることだ。教訓だけを学んであとは忘れてしまうことだ。
成功から学ぶことは誰でもできる。難しいのは失敗から学ぶことだ。過去はいろいろと教えてくれている。過去の体験によってあなたは道徳的にも霊的にも成長した。同時にあなたの間違っている点も教えてくれた。因果律の働きも教えてくれた。だから過去には大いに感謝しなければならない。過去がなかったら今のあなたも存在しないのだ。良いことも楽しいことも為になったが、失敗や不幸も為になっている。が、その過去の出来事は一切忘れて、教訓だけを忘れないようにすることだ。未来はまだ来ない。どんなものをもたらしてくれるかは誰にもわからない。果たして自分に未来があるかどうかもわからない。未来については我々人間はどうしようもないのだ。大いなる未知、素晴らしき冒険、それが未来だ。そのどこかで死が待ち受けている。わかっているのは現在だけだ。その今日という日を精一杯生きることだ。明日の事を思い煩ってはいけない。
人生を顧みると、あなたの心身をむしばんできた挫折も蓄財も欲望も嫉妬も後悔も、ことごとく無意味であることに気づく。今日限りそうした低級な感情と決別し、平成と愛と同情心と理解と寛容と笑いの人生に置き換えることだ。M・H・テスター

 

 

シルバー・バーチの霊訓
暗黒の勢力と既得権にあぐらをかいている宗教界との戦いのほかに、もう一つ、人間の心“心配の念”という敵との戦いもあります。無知から生じる無用の心配の念が無数の人間の心に巣くっております。心配というのは想像の世界にしか存在しないものです。実在しないということです。それで私は心配の念を棄てなさいと繰り返し申し上げるのです。解決できない問題というのは絶対に生じません。重すぎて背負えないほどの荷は与えられません。常に明るく確信に満ちた雰囲気の中で生活していれば、必ずや援助し導いてくれる勢力を呼び寄せます。   シルバー・バーチの霊訓 (12)(近藤千雄訳) p190

 

人間は物質の中に埋もれた生活をしているために、バイブレーションが低くなっております。朝目を覚まし、まだ意識が完全に働かないうちから、あれやこれやと煩わしいことや心配ごとの波に呑み込まれていきます。大きい悩み、小さい悩み、真実の悩み、取り越し苦労に過ぎぬもの、等々いろいろあります。いずれにせよ全ては一時的なものにすぎないのですが、そういうものに心を奪われてしまうと、背後霊が働いてくれている事実を忘れ、あなた方の思考の流れの中から霊的要素が閉め出され、霊的流入を遮断する一種の壁をこしらえてしまいます。 シルバー・バーチの霊訓 (12)(近藤千雄訳) p203

 

すでに地上にもたらされている証拠を理性的に判断なされば、生命は本質が霊的なものであるが故に、肉体に死が訪れても決して滅びることはありえないことを得心なさるはずです。物質はただの殻に過ぎません。霊こそ実在です。物質は霊が活力を与えているから存在しているに過ぎません。その生命源である霊が引っ込めば、物質は瓦解してチリに戻ります。が、真の自我である霊は滅びません。霊は永遠です。死ぬということはありえないのです。
 死は霊の第二の誕生です。第一の誕生は地上へ生をうけて肉体を通して表現しはじめた時です。第二の誕生はその肉体に別れを告げて霊界へおもむき、無限の進化へ向けての永遠の道を途切れることなく歩み始めた時です。あなたは死のうにも死ねないのです。生命に死はないのです。
 不滅の個霊としてのあなたは肉体の死後も生き続け、あなたという個的存在を構成しているものはすべて存続するという事実を立証するだけの証拠は、すでに揃っております。死後も立派に意識があり、自覚があり、記憶があり、理性を働かせ愛を表現するカがそなわっています。愛は神性の一つなのです。愛はその最高の形においては神々しさを帯びたものとなります。そして生命と同じく、不滅です。
 私たち霊団の者はなぜこの地上へ戻ってくるのでしょう? 数々の心痛と難題と苦悶と災難と逆境の渦巻く地上世界へ永遠に別れを告げることは、いとも簡単なことです。しかし、私たちには地上人類への愛があります。そして又、それに劣らぬ愛の絆によってあなた方と結ばれている霊(地上的血縁でつながっている霊や類魂)も存在します。
 教会で行われる婚礼では、「死が二人を別つまで」という言い方をしますが、もしも二人が霊的に結ばれていなければ、死が訪れる前から二人は別れております。そこに愛があれば、二人を別れさせるものは何一つありません。愛は宇宙における強力なエネルギーの一つです。ひたすら人類のためと思って働いている霊界の高級霊を動かしているのも愛なのです。
 私たちは自分自身のことは何一つ求めません。崇拝していただこうとは思いません。敬っていただこうとも思いません。もしも私たちが何かのお役に立てば、そのことを大霊に感謝していただき、ご自身が恩恵を受けたその恩返しに同胞へ恩恵を施してあげてくだされば、それでいいのです。サイキック・プレス編 シルバーバーチは語るp13-15

 

死ぬということは決して悲劇ではありません。今その地上で生きていることこそ悲劇です。神の庭が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場もなくなっている状態こそ悲劇です。
 死ぬということは肉体という牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです。苦しみから解き放たれて霊本来の姿に戻ることが、はたして悲劇でしょうか。天上の色彩を見、言語で説明のしようのない天上の音楽を聞けるようになることが悲劇でしょうか。痛むということを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駈けめぐり、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなたがたは悲劇と呼ぶのですか。
 地上のいかなる天才画家といえども、霊の世界の美しさの一端たりとも地上の絵具では表現できないでしょう。いかなる音楽の天才といえども、天上の音楽の施律のひと節たりとも表現できないでしょう。いかなる名文家といえども、天上の美を地上の言語で綴ることは出来ないでしょう。そのうちあなたがたもこちらの世界へ来られます。そしてその素晴らしさに驚嘆されるでしょう。
シルバー・バーチの霊訓(4)(近藤千雄訳)p133-134

 

死は地上生活の労苦に対して与えられる報酬であり、自由であり、解放です。いわば第二の誕生です。死こそ真の生へのカギを握る現象であり、肉の牢の扉を開け、閉じ込められた霊を解き放ち、地上で味わえなかった喜びを味わうことを可能にしてくれます。愛によって結ばれた仲が死によって引き裂かれることは決してありません。神の摂理が顕幽の隔てなく働くと言われるのはそのことです。愛とは神の摂理の顕現であり、それ故にありとあらゆる人間の煩悩ーー愚かさ、無知、依桔地、偏見等々を乗り超えて働きます。
 シルバー・バーチの霊訓(1)(近藤千雄訳) p150?

 

 

 =交霊会の仲間の死を悼む発言に対して=

 

 いったい何を悲しむというのでしょう。死に際して悲しみを抱くということは、まだ進化が足りないことを意味します。本当は地上に留まること自体が苦痛であり、地上を去ることは苦痛から解放されることであり、暗黒の世界から出て光明の世界へ入ることであり、騒乱の巷から平和な境涯へと移ることを意味することを思えば、尚のことです。霊的知識を得た者がなぜその知識と矛盾する悲哀に心を傷めるのか、私は理解に苦しみます。
 もう一歩話を進めてみましょう。霊的真理についての知識を初めて手に入れた時、それは目も眩まんばかりの啓示として映ります。それまでの真っ暗闇の混乱、わけの分らなかった世界がぱっと明るく照らし出される思いがします。が、その新しい理解がいかに大きいものであっても、やがて納まるべきところに納まり、その人の在庫品の一つとなっていきます。しかし知識は使うためにあるのです。その知識のおかげで視界が広がらなくてはいけません。理解力が増さなくてはいけません。洞察力、同情心、寛容心、善意がいっそう大きくならなくてはいけません。せっかく知識を手にしながら、それをある限られた特別の機会のために取っておくことは許されません。それは人生のあらゆる側面における考えを改めるために使用されるべきものです。皆さんがこれまでに学び、観察し、体験してきたことに幾ばくかでも真理があったとすればーもし学んできたことが霊的な価値を有するものであれば、その価値はそれを実際に使用し実生活に適用することによって少しでも多くの霊的自我を発揮させることで生かされるのです。
 身近かな人の死に直面した時、あの馴染みの顔、姿、あの言葉、あの笑顔がもう見られなくなったことを悲しむのではないと断言なさるのなら、あなたは絶対に悲しむべきではありません。この交霊会での知識は週に一度わずか一時間あまりの間だけの知識として取っておいていただいては困ります。皆さんの日々の生活の中で使用していただかないと困ります。その霊的な価値は工場において、仕事場において、事務所において、商いにおいて、専門職において、天職において、奉仕的仕事において、家庭内において、その絶対的基盤としなければなりません。あなた方の生活のすべての行為における光り輝く指標とならなければなりません。それが知識というものの存在価値なのです。と言うことは、スピリチュアリストを自認する方はスピりチュアリズムというものをーこれも霊的真理の一側面に付した仮の名杯にすぎませんがーー身内の人を失って悲しむ人のためにだけ説いて、それ以外の時は忘れているということであってはならないということです。私どもが教えんとしていること、駆使しうるかぎりの力を駆使して示さんとしていることは、この宇宙が霊的法則によって支配された広大な世界であること、そしてその法則は、人間みずから見えることより見えないことを望み、聞こえることより聞こえないことを望み、物が言えることよりも言えないことを望み、常識より愚昧を好み、知識より無知を好むことさえなければ、決して恩恵をもたらさずにはおかないということです。
 知っているということと、それを応用することとは別問題です。知識は実生活に活用しなくてはなりません。死を悼むということは霊的知識が実際に適用されていないことを意味します。地上生活を地上生活だけの特殊なものとして区切って考える習癖を改めなくてはなりません。つまり一方に物質の世界だけに起きる特殊な出来ごとがあり、他方にそれとはまったく異質の、霊的な世界だけの出来ごとがあって、その二つの世界の間に水も漏らさぬ仕切りがあるかのように考えるその習癖から卒業しなくてはいけません。あなた方は今そのままの状態ですでに立派に霊的な存在です。死んでから霊的になるのではありません。違うのは、より霊的になるという程度の差だけであって、本質的に少しも変わりません。あなた方にも霊の財産であるところの各種の才能とエネルギーが宿されているのです。今からあなたのものなのです。肉体に別れを告げたあとで配給をうけて、それを霊体で発揮しはじめるというのではありません。今日、いまこうしている時からすでにそれを宿しておられるのです。言わば居睡りをしながら時おり目を覚ます程度でしかありませんが、ちゃんと宿していることには違いありません。霊的知識を手にしたあなた方は人生のあらゆる問題をその知識の光に照らして考察し、そうした中で霊の所有物、才能のすべてを発揮できるようにならなければなりません。
 悪いと知りつつ非を犯す人はー"罪を犯す″という言い方は私は好きではありませんが---知らずに犯す人よりはるかに悪質です。盗むことは悪いことですが、霊的知識を手にした人がもし盗みを働いたら、それは千倍も悪質な罪となります。恨みを抱くことは悪いことですが、霊的知識を知った人がもし誰かに恨みを抱くようなことがあったら、それは千倍も悪質な非となります。知識はすべてのことに厳しさを要求するようになります。私がいつも"知識は責任を伴う″と申し上げているのはそういう意味です。霊的なことを知っていながらそれが実生活における行為にまるで反映していない人が多すぎます。難しいことかも知れませんが、人間は一人の例外もなく今この時点において霊の世界に住んでいること、決して死んでから霊になるのではないということをしっかりと認識してください。死ぬということはパイブレーショソの問題、つまり波長が変るということにすぎないことを認識してください。知覚の仕方が変るだけのことと言ってもよろしい。日常生活で固くてしっかりしていると思っているものとまったく同じ、いえ、もっともっと実感のあるものが、たとえあなた方の目に見えなくても、立派に存在しております。
シルバー・バーチの霊訓(3)(近藤千雄訳)p40-44?

 

 (死を悲しむのは間違っている)
 "生″を正しい視野で捉えていただきたい。その中で "死″が果たしている役割を理解していただきたいと思います。人間はあまりに永いあいだ死を生の終りと考えて、泣くこと、悲しむこと、悼むこと、嘆くことで迎えてきました。私どもはぜひとも無知--死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れと見なす無知を取り除きたいのです。そして死とは第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人類の進化における不可欠の自然現象として神が用意したものであることを理解していただきたいのです。死ぬということは生命を失うことではなく別の生命を得ることなのです。肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身となって地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられるより豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。
 死の関門を通過した人はカゴから放たれた小鳥のようなものです。思いも寄らなかった自由を満喫して羽ばたいて行くのです。人間が死と呼ぶところの看守によって肉体という名の監獄から出させてもらい、(原則として)それまでの肉体に宿っているが故に耐え忍ばねばならなかった不平等も不正も苦しみも面倒もない、より大きな生へ向けて旅立ったのです。霊本来のかぎりない自由と崇高なよろこびを味わうことになるのです。
 苦痛と老令と疲労と憂うつとから解放された人をなぜ悲しむのでしょう。暗闇から脱して光明へと向かった人をなぜ悲しむのでしょう。霊の本来の欲求である探求心を心ゆくまで満足できることになった人をなぜ悼むのでしょう。それは間違っております。その悲しみには利己心が潜んでいます。自分が失ったものを悲しんでいるのです。自分が失ったものを自分が耐えていかねばならないこと、要するに自分を包んでくれていた愛を奪われた、その孤独の生活を嘆き悲しんでいるのです。それは間違いです。もしも霊的真理に目覚め、無知の翳みを拭い落とした目でご覧になれば、愛するその方の光り輝く姿が見えるはずです。死は決して愛する者同士を引き離すことはできません。愛はつねに愛する者を求め合うものだからです。あなた方の悲しみは無知から生じております。知識があれば愛する者が以前よりむしろ一段と身近かな存在となっていることを確信できるはずです。霊的実在を悟ることから生じるよろこぴを十分に味わうことができるはずです。
 皆さんもいずれは寿命を完うしてその肉体に別れを告げる時がまいります。皆さんのために尽くして古くなった衣服を脱ぎ棄てる時が来ます。霊が成熟して次の進化の過程へ進む時期が来ると自然にはげ落ちるわけです。土の束縛から解放されて、死の彼方で待ちうける人々と再会することができます。その目出たい第二の誕生にまとわりついている悲しみと嘆き、黒い喪服と重苦しい雰囲気は取り除くことです。そして一個の魂が光と自由の国へ旅立ったことを祝福してあげることです。
  シルバー・バーチの霊訓(3)(近藤千雄訳)p44-46?

 

(呼吸が止まった直後に起きること)
 魂に意識のある場合(高級霊)は、エーテル体が肉体から抜け出るのがわかります。そして抜け出ると目が開きます。まわりに自分を迎えに来てくれた人たちが見えます。そしてすぐそのまま新しい生活が始まります。魂に意識がない場合は看護に来た霊に助けられて適当な場所----病院なり休息所なり----に連れて行かれ、そこで新しい環境に慣れるまで看護されます。   シルバーバーチの霊訓(4)(近藤千雄訳)p145

 

 

 

 

 

真理-----山村幸夫?与え尽しの愛 P98
人間の実在は、ほんとは「霊」なんだ
実在であるその「霊」は、永遠に不滅である
生まれ変わり、輪廻転生は本当に実在するんだ
霊界という世界があり、そこには霊人が存在する
菩薩とか、如来とか、あるいは天使と呼ばれる高級霊の世界があり、それらのすべてを統括する「神」という存在の世界もあるんだ

トップへ戻る