古代霊シルバーバーチ 最後の啓示
古代霊シルバーバーチ 最後の啓示
トニー・オーツセン著 近藤千雄訳
あの世へ行ってまだ霊的バイブレーションに順応していないうちは、地上時代と同じパターンの生活をする。低級界、いわゆる幽界は、いろいろな点で地上とそっくりです。これは新参者にショックを与えないようにとの神の配慮なのです。
あの世にも庭があり、家があり、湖があり、海がある。それぞれに実体があり、実在なのです。フワフワとした、形態のない世界ではない。霊界の自然環境は、芸術的な美しさにあふれ、とても言語では表現できない。
霊界から地上界へと通信を送るのは、そう簡単ではない。様々な障壁があるが、それらを克服して通信を送ってくるのは、愛の絆があるからです。
霊界での仕事は、その人によりけりです。もしも授かっていた本能を地上で発揮できなかった人は、霊界へ行ってから発揮するよう努める。地上でやりたくてもできなかったものが、霊界ではできます。
地上人類の最大の問題点は、大霊よりも黄金の子牛(金銭)を崇拝の対象としている者が多すぎることです。欲の皮が突っ張れば、霊性はしぼみます。霊性が第一であることを一人でも多くの人に説かないといけません。
一転非の打ちどころのない人生を送っていた人が、がんで亡くなりました。なぜでしょうか。
その答えは簡単です。その人は一転非の打ちどころのない人生を送ってはいなかったということです。もし一転の非の打ちどころのない生活をしていれば、がんにはなりません。がんになったということが、どこか摂理に反したことをしていたことの証明です。
がんは精神の持ち方と深くかかわっている病気の一つです。個体としての不調和が原因です。病理学的には、寄生虫病的な増殖をする種類に属しますが、原因をたどっていくと意地きたなさ・憎しみ・失意・虚栄心、その他、精神と肉体の調和を乱す何かがあり、その結果として悪性の細胞が手の施しようのない勢いで増殖していきます。病気は食べ物や飲み物だけで片付く問題ではありません。精神的な要素と霊的な要素も考慮しなければなりません。
こうしている間でも地上から何百万、何千万という人間がこちらへ送られてきますが、そのほとんどが死後への準備が何もできていないのです。みんな当惑し、混乱し茫然自失の状態です。それで我々が、いろいろと手を焼くことになります。本当はそちらで霊的教育を始めるほうがはるかに面倒が少なくて済むのです。
霊的真理はいかなる物的手段によっても抹殺されることはありません。抑圧・不正・圧政・独裁などによって後退させられることはあっても、無きものにされることはありません。霊を破滅させる力を持ったものは地上には存在しません。
地上での真理の普及には困難はつきものです。が、真理は真理であるがゆえに、最後は必ず行きわたります。地上には真理を抹殺できる力は存在しません。
そもそも人間の生命を奪うようなビールスが発生するということは、人類の生き方がどこか間違っていることの証拠です。人類の生き方は地上の環境のすべてに反映するのです。生き方をただせば、そういう克服できそうにない問題は生じなくなります。人類の行動と環境との間には不離の関係があるのです。
地上生活の目的は、物的身体に宿った霊に様々な体験をさせ、次の段階、つまり肉体の死後から始まる生活に備えることです。地球という天体は学校です。そこで魂が勉強し、永遠の生命のカリキュラムの次の学年に備えているのです。
障害児とか早世する子の問題は、やむを得ぬこととはいえ、この種の質問はみな、物的な側面を見るところから生じるものです。地上の人間にとっては、霊的な観点から見ることは不可能でしょう。いわば短期的な視点から見ておられ、長期的な視点から見ることができません。皆さんの焦点は常に日常生活の期間だけに置かれていて、それで不完全なものとなるのです。再生とカルマと奉仕的精神、それに霊性の進化と熟達度が絡んでおります。とても複雑なのです。生命の霊的本質とその無限の可能性がすべての基本にあるのです。この種の問題に心を砕かれる方々にぜひ理解していただきたいのは、こうした深刻な問題にその場限りの安直な返答ですり抜けることは、私には許されないことです。
これには物的法則と精神的法則と霊的法則が絡んでおります。
法則は法則どおりの結果をもたらすものです。因果律に罰があるように、埋め合わせもあります。神の秤は寸分の不公正もありません。
見た目には何か大きな手違いがあったかに思えるかもしれませんが、霊的な観点から見た場合、地上人類の現在の進化の階梯では理解の及ばない事情があることを理解してください。
中絶は殺人行為です。その認識のもとにお考えになればよろしい。が、動機となる事情にはやむを得ないものがあることも私は理解しております。
なぜその身体に宿ったのかは、母胎を提供した人物との間に因縁があって、それで霊のほうから選択する場合があります。中絶されてしまえば、別の身体を求めるでしょう。同じ母胎に戻ってくる場合もあります。
霊が身体を支配しているのです。身体は霊のおかげで存在しているのであって、身体があるから霊が存在するのではありません。そのことをあらゆる面で認識してください。霊の欲求・霊の影響力と調和するような生活を心がければ、自然の摂理によって、あなたの生活に霊性がみなぎり、身体まで気高くなります。
病気になるということは、どこかで法則に違反しているということの証拠です。何か不自然なことをして、それが原因で一連の法則が働いて、その最後の結果が苦痛という形で表れているわけです。苦痛は、大霊が罰として与えているのではありません。賞も罰も、因果律にのっとって、自分で自分に与えているのです。種まきと刈り取りです。
全生命と調和して生きていれば病気になるはずはありません。健康とは調和のことだからです。病気になるということは、その調和を乱していることの証拠です。職業とは関係ありません。いかに献身的であっても関係ありません。どこかで法則に反したことをしていて、その結果として病気が生じているのです。P97
愛とは生命の活力源です。霊はすなわち生命であり、生命はすなわち霊です。霊がすべてに優ります。霊は主で、物質は従です。P111
霊的観念からすれば、地上のいかなる民族の間にも障壁はありません。障壁があるとすれば、それは地理的なもの、物質的なもの、人間が勝手にこしらえたものばかりです。皮膚の色とか国家の違いは、いかなる意味での優越性も生み出しません。優越性はサービスと霊性の開発と熟達度によって決まるのです。私たち霊界の者は地上人類を一つの霊的大家族とみております。全体を一つにつなぎとめる霊的な絆があることを実感しております。そのこと、すなわち全人類は霊性においてひとつであるということを知らねばなりません。地上生活の目的は人のために役立つことをする、つまりお互いが助け合うということ、そして、そうした生き方の中で霊的に、精神的に、そして物質的に、あらゆる束縛から解き放たれることです。いかなる形にせよ、束縛されるということは、いかなる原理に照らしても間違いです。P116
原因と結果の法則が数学的正確さをもって働いており、一人ひとりのいかなる行為にも公正無比の判断が下されるようになっております。P128
因果律の働きは避けようにも避けられません。原因とその結果の間には、何者も介入できないのです。原因にはそれ相当の結果が、そしてその結果が原因となってそのまた結果が、というふうに、途切れることなく続きます。永遠に続くのです。P132
霊的法則の中でも一番大切なものは、互いに愛し合うこと、これが最大の法則です。P132
人間の死は、定められた時期にこちらの世界へ来ることになっているのですが、例外もあります。その理由はと問われても、摂理の裏に別の次元の摂理があり、それが一見すると矛盾するような形で複雑に入り組んで働くために、簡単なようで簡単ではないのです。こちらの世界の高級霊のように全体像を眺めることができれば、なるほどと納得がいかれるでしょうが、地上界へ生まれてくるのも、地上界から去るのも、大体において、みな自分で納得の上で取り決めております。P133
霊が正常であれば精神も正常であり、身体も正常です。身体に生命を賦与しているのは霊です。霊はすなわち生命であり、生命はすなわち霊です。霊とは大霊であり、大霊がすなわち生命ということです。物的身体は霊が自我を実現するための道具であり、精神はそのためのコントロールルームと思えばよろしい。残念ながら現代のせわしい生活機構が緊張とストレスと過労を生んでおります。それが調和を乱すのです。霊が病み、精神が病み、それが肉体に病的症状を生み出します。心身症という病名がありますが、これは精神と霊に起因する病気のことです。ですから、仮に心配が原因で潰瘍が生じた場合は、その潰瘍部分を切除しても何にもなりません。心配をするという精神の病がある限りは、また潰瘍が生じます。心配をしないように精神を修養するしかありません。そうすれば潰瘍も消えます。P137
地上世界にもめごとや困難や不幸が絶えないのは、相変わらず強欲と利己主義と怨恨によって支配されているからです。P139
人生の究極的な目的は、その、あなたという霊の属性を発揮することです。逃れることのできない肉体の死とともに始まる次の段階の生活に備えるためです。P145
脳死状態となった植物人間の生命を永らえさせるのは正しいでしょうか、との問いに
本来人間は自然の摂理にかなった生活をしていれば、死も自然な形で訪れるようになっております。ところが残念ながら人間は必ずしも大自然の摂理にかなった生き方をしておりません。それで霊と精神と身体の調和のとれた相互関係が崩れて、いわゆる病気になるわけです。脳が回復不能の損傷を受けることがあります。医学者の中にはそれをもって生命の終わりとする人がいますが、必ずしもそうとは言えないのです。同じことが、脳が損傷して使えなくなった場合にも言えます。それをもって”死んだ”とするのは間違いです。本当の死は霊が身体から完全に離れてしまった時のことです。それは俗にシルバーコードと呼ばれている発光性の生命の紐(玉の緒)が切れた時のことです。この世に誕生した赤ん坊はヘソの緒が切断されて初めて一個の独立した人間となるように、霊もシルバーコードが切れたときに初めて霊界の一員となるのです。地上の医師にはその事実を確認する手立てがありません。実を言いますと、身体は植物状態になっていても、霊そのものも本当の死に至るまでにいろいろと学ぶべきことがあるのです。ですから結論としては、動機は何かという点です。死なせることが患者にとって最善の策だと真剣に考えるのであれば、そうすればよろしい。ただ残念ながら医師は本来はそういう決断を下す立場にないということを知ってください。権利が乱用される心配があります。P154
霊の世界も地上から送られてくる人間によって構成されています。ですから人間がみんな聖人君子であってくれれば、霊界も聖人君子ばかりになるのですが、残念ながら地上から送られてくる人間は利己的で邪悪で、他人への思いやりがありません。地上界にいた時と同じレベルのままこちらへ来るわけです。ですから、親和力の原理で、同じレベルの人間と簡単につながりができます。低いものであれば麻薬とかアルコールなどの習慣で霊界の低級霊が引っ付きます。高潔な人間であれば、高級界の霊とのつながりができて、崇高なインスピレーションに接することができます。つまり高級な支配はインスピレーションの形をとり、それが低級になると憑依という形をとることになります。親和力の原理においては両者は同じです。P159
実は、死後への準備は地上生活中にある程度までなされているのです。それが行われるのは、睡眠中です。幽体で離脱してそれ相応の場所を訪れています。その間の体験は、脳に印象付けられないため記憶にないのですが、意識の深層に刻まれていて、いよいよシルバーコードが切れてこちらの住民になった時に役に立ちます。P160
問い---1個の霊が地上へ生まれ出る際には、あらかじめ一生の計画、つまり決められた寿命や体験すべき出来事、なすべき仕事があるということは信じていますが、もしも思わぬ事情から当人がその予定された道から外れて、取り返しのつかない事態に立ち至った時には、その人生を切り上げてしまうこともあるというのは本当でしょうか。
「まず初めに申し上げておきたいのは、そうした内的次元の問題に深入りすると、地上の言語では説明できない、微妙で複雑な法則や事情を取り扱うことになるということです。物質界に生まれ出るに際しては、大体において今回はこうしたいという確たる目的を心に決めております。が、いざ物的身体に宿ってしまうと種々雑多なエネルギーの相互作用に巻き込まれます。中にはその初心の霊的目的に気づかないまま、愚かな道にはまり込んでしまう人もいます。自由意志がある以上、それもやむを得ません。そこで背後霊というものが用意されていて、自己実現にとって最善の道へ導こうと努力します。あなた方のもとへ訪れる人の中には、そうやって背後に導かれて来ている場合があるのです。その時こそあなた方の活躍の好機です。その人にとっても起爆剤に点火される決定的な出会いとなるかも知れません。そうした指導をするに際して私たちが使用するエネルギーやテクニックは極めて微妙で、地上の言語ではとても説明できません。基本的には、地上で使用する身体は自分で選んでおり、歩むべき道もあらかじめ承知しております。しかも順調に運べば見事に開花してサービスに役立てることのできる霊的才能を携えていることもあります。しかし、人間には自由意志が許されています。いよいよ重大な岐路に差し掛かった時、約束したはずの道を嫌がって気楽な人生を選んでしまえば、それはそれでやむを得ないことです。そういう選択をした者が、死後に後悔して、もう一度やり直すということも現実にあることです。そうやって道を間違えた場合に、その人生を途中で切り上げということは致しません。背後霊にもそういう権限はありません。力量もありませんし、そうしたいとも思いません。あくまでサービスと指導へ向けて努力します。自己実現をしようとしている魂に余計な干渉はしません。P177
自分の身体を自分で選んだということは、親も自分で選んだということですか。
むろんです。賢明なる子は親のことをよく知っております。
もしも自由意志を放棄したらどうなりますか。
それも自由意志の行使ではないでしょうか。
自分の地上生活は自分の思うようにすればいいのです。そのかわり、その物的身体で行うことについて、すべて自分が責任を負わなくてはいけません。自分で選択したものなのですから。P178
悪とは得てして無知のことである場合があります。悪であるということを知らないでいるということです。邪心も、得てして無意識のうちに出していることがあります。邪悪であるということを知らずにいるということです。根っから邪悪な人間は、そう沢山いるものではありません。そういう人たちは未熟な魂であることを認識してあげてください。生命の進化は永遠の過程である以上、発達したものと未熟なものとが常に存在することになります。それはこちらの世界でも同じことです。ピンからキリまで、無数の階梯の存在がおります。ヤコブのはしご は地上界のどん底から天界の最上階まで伸びているのです。要は相対性の問題です。地上の人間にとって幸せに思えることが、私たちから見ると惨めに思えることがあります。例えば赤ちゃんの誕生はあなた方にはお目出度いことでしょうが、私たちにとっては必ずしもそうは思えません。また人間は死を悲しみますが私たちは霊の解放と受け止めます。見方の違いです。P182
霊力とは生命力であり、生命の素材そのものであることを理解してください。活力そのものです。無限に存在します。柔軟な性質をしており、どんな形態にも変化します。変換も組み換えも自由自在です。P188
霊力は明るく楽しい、そして快活で受容性に富んだ性格の人ほど効果を発揮し、陰鬱で猜疑心の強い、そして動揺の激しい性格の人には、良い効果は出ません。
P194