美濃高原の山・尾城山
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 尾城山には、文字通り、戦国時代、飛騨領主「三木自綱(みつきよりつな)」が砦を築いていました。東農苗木の遠山氏を見張るためでした。砦でのろしを上げると、近くの大威徳寺に伝わるしくみでした。ちなみに、大威徳寺は、鎌倉時代創建で、源頼朝ゆかりの由緒有る大寺院でしたが、戦火で遠山氏に焼かれ、さらに天正の大地震で壊滅しました。(源流を訪ねてU)(松倉山上城山参照)
 尾城山は、美濃高原の最北の1,000m峰であり、白川町、東白川村、加子母村の3境に位置します。美濃高原は、東濃地方から飛騨南部にかけてのなだらかな山域をいいます。それはちょうど、東濃地方を中津川から下呂にぬける南北に連なる南北街道の西側の山並みです。南北街道の東側は阿寺山地で、街道はほぼ阿寺断層(新巣山参照)に沿っています。
 美濃高原の山々はほとんど標高700mから1,000m内外の山ばかりなので、尾城山が抜きん出て高いわけではありません。また美濃高原には、標高700mから800m内外に小起伏面(なだらかな斜面)があるのが特色です。このように、美濃高原の山頂の高度が比較的そろっていてなだらかな地形がある理由は、ここが隆起準平原だからです。
 隆起準平原は、以下のようにできました。数百万年以上も前、地殻変動のおだやかな時期があって、侵食作用が続いた結果、今の日本全土にあたる地域がほとんど平原になりました。その後平原は、地殻変動がさかんになるに伴い断層を境に隆起します。すると、侵食が再開して谷ができます。ただ、かつての平原のなだらかな地形面が山頂付近に残っているので山頂高度がほぼそろっているのです。
 美濃高原は、ほぼ同じ隆起活動をした地域ブロックです。この地域ブロックは、阿寺断層などの断層で境されます。ブロック内の山々の山姿や標高は、地質が同じであれば同様の侵食効果を受けて似てきます。他に三河高原や飛騨高原(天蓋山参照流葉山参照)も、同じような地域ブロックのひとつです。
 尾城山への登路はいくつもあるようですが、加子母中学校横の林道から入山しました。ゲート手前に自動車を置き尾城山林道をつめました。林道終点になる前に山頂方向に小道があったので、その道を尾根まで登り、尾根を左に進むと山頂でした。山頂からの展望は、ヒノキの植林のためありませんでした。
【参考】吉川虎雄ほか(1973):新編日本地形論、東京大学出版会
吉村朝之(2001):源流をたずねてU、岐阜新聞社


加子母村からのなだらかな尾城山
【登頂日】1997年6月14日
【標高】1133m
【場所】岐阜県恵那郡加子母村
【記録】12:20 尾城中腹林道ゲート 12:27 林道左カーブの小道 12:50 林道切り通し(右へ) 12:53 尾根方面小道 13:00 分岐、大岩 13:07 尾根 13:20 山頂着(北方から) 14:15 山頂発(南方へ) 14:41 林道切り通し(ここから林道)1030m 15:06 林道左カーブ900m 15:10 尾城中腹林道ゲート 880m