三木氏の城跡・松倉山
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 松倉城は、高山市街の南西の松倉山にありました。戦国武将、三木自綱(みつきよりつな)が、天正7年(1579年)に築城しました。三木氏は飛騨守護京極氏の代官でしたが、主家に代わって勢力を伸ばし、自綱の頃にはほぼ飛騨1国を手中にしました。(郷土資料事典岐阜県)
 戦国期の飛騨では、南飛騨の三木氏、高原郷(飛騨北東部)の江馬氏、白川郷(飛騨北西部)の内ヶ島氏が比較的大きな勢力でした。他に古川盆地には国司姉小路氏から分かれた諸家や広瀬氏等がありました。これらの諸豪族のほとんどは、天正年間に三木氏に滅ぼされたか支配下になりました。(飛騨の歴史)(本堂山上城山蕎麦角山尾城山参照)
 三木自綱は、柴田勝家らと、秀吉打倒を画したため、天正13年(1585年)8月、秀吉は金森長近に命じて三木氏を攻めさせました。広瀬城の自綱は降伏して国外追放、松倉城の次子秀綱も信州に敗走して三木氏も6代で滅びました。(郷土資料事典岐阜県)
 三木秀綱とその奥方は、信州で最後をとげました。信州では、梓川流域に秀綱神社が何ヶ所もあり、数々の伝説が残っています。秀綱は土民に襲われ、持っていた砂金を渡さず川に投げ込んだところ、砂金が石に変わったという話などがあります。また飛騨側高原郷で、追われる秀綱を桑の木に隠したら養蚕が豊作でした。このことが信州側に伝わり秀綱は養蚕の神様になりました。(飛騨の城)
 そういえば、飛騨側から焼岳に登る途中にも秀綱神社がありました。松倉城の伝説としては、城下(飛騨の里付近)の小糸坂の話があります。小糸という少女が武士にさらわれ、築城の人柱となったため、母親の気が狂ったという話です(飛騨の伝説)。しかし、この話は昭和になってからの創作です(飛騨の文学碑)。
 飛騨の里の上から、遊歩道を登りました。山上には荒城の月を思わせる石垣が残っていました。
【参考】森本一雄(1987):飛騨の城、郷土出版社
小島幸男(1987):図説飛騨の歴史、郷土出版社
人文社観光と旅編集部(1990):郷土資料事典(岐阜県)、人文社
小島千代蔵(1933):飛騨の伝説、小島光政
中舎高郎(1978):飛騨の文学碑、教育出版文化協会

山頂の標識
【登頂日】2002年5月6日
【標高】857m
【場所】岐阜県高山市
【記録】11:10 民俗村駐車場(飛騨の里ルート) 11:25 遊歩道入口 11:40 峠 11:55 松倉観音 12:10 峠 12:20 山頂着 13:10 山頂発 13:55 民俗村駐車場(民俗村ルート)