雷倉と小津に落ちた雷様
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 奥美濃・雷倉は、東の根尾村側では「かみなりくら」、西の藤橋、久瀬村側では「らいくら」といいます。江戸期の新撰美濃志、小津村の項を読むと「雷冥岳は村の北のほうにあり、高山なり」の記述があります。また、根尾村史では、ふもとの八谷地区の中又谷の説明の中で「雷鳴倉といって初心者登山者向きの岩場があって---」とあります。
 倉とは岩場を示すことばで、雷倉を「いそくら」と読み、露岩の多い岩場を示すとも解釈されています。(岐阜県揖斐郡ふるさとの地名、奥美濃)
 落雷の分布図で見る限り、奥美濃で特に落雷が多いとはいえませんが、奥美濃から岐阜県中部にかけて降水量の多い地域です(創立百年誌)。奥美濃山塊の南斜面(岐阜県側)には、低気圧や前線に吹き込む南寄りの風がぶつかります。この南寄りの風と山塊の寒気との間に、中規模の前線ができて多降水になります(風土の構造)。(笠置山参照)
 また、雷倉周辺には雷の伝説や岐阜県では珍しい雷神社があり、奥美濃は雨乞い伝説や竜神伝説の多く残る地域です。険しい山地が多く、作物といえば焼畑に依存していた江戸時代、降水の多い年があるだけに干ばつの年には、逆に大きなダメージがあり、雨乞いの後の雷雨は大きな意味があったと思います。(三周ヶ岳舟伏山参照)
 雷倉の南側の久瀬村小津地区には次のような雷伝説が残っています。ひとつは、小津のお宮に雷が落ちたとき、これをつかまえたテッチュウという人が、「こんで小津に落ちたら放さんぞ」と言って放してやったら、以後小津に雷が落ちなくなったという話です(久瀬村史)。もうひとつは、雷が小津の白山大権現の大杉に落ちたとき、天狗がしゃもじで雷を押さえつけ天に向け放り投げたという話です。このしゃもじは、小津の白山神社に雷から小津を守る天狗の話とともに今も残っています(久瀬のむかし話上巻)。小津川付近には、天狗谷や雷倉の地名がありますが、これら伝説に関連した地名であると推測します。
 一方雷倉の東側の西板屋には、雷神社があり次のような由来が伝わっています。「あるとき、大蛇が猿に化けて木に登っているところを、狩人悪四郎が一矢で射落としました。すると、にわかに天地が震動し雷とともに火の雨が降り池は真っ赤になりました。その大蛇は辰頭として、現在雷神社に祭られています。」(根尾村史)
 なお藤橋村史によると、「雷様は、顔が鬼、体がイタチのような形をしていて、へそを取りに来る。また天に住む婆さんが、うすを引き太鼓を叩く。」と伝えられています。雷倉がとがっているのは雷が落ちたせいだという伝説もあります。
 雷倉には、山の東側の八谷から登りました。中又谷と下津谷の出合では、川に下り鉄橋を渡ります。渡ったら10m程度登り左方の道に行くことがポイントです。この地点が道のわかりにくい所です。ここから、いったん尾根道に入れば後はひたすら登るのみです。山頂部を除き、道も刈り分けも思ったよりはっきりしていました。山頂からは、能郷白山、花房山、五蛇池山等が見えました。
【参考】岡田文園(1860頃):新撰美濃志、一信社(復刻版)
根尾村(1980):根尾村史、根尾村
揖斐郡教育会(1992):揖斐郡ふるさとの地名、揖斐郡教育会
伊藤義彦ほか(1975):奥美濃、三葵会
岐阜地方気象台(1981):創立百年誌、岐阜地方気象台
鈴木秀夫(1975):風土の構造、大明堂
久瀬村(1973):久瀬村史、久瀬村
久瀬村教育委員会(1998):久瀬のむかし話上巻、久瀬村
藤橋村史編集委員会(1982):藤橋村史、藤橋村
山頂付近から花房山(すぐ後は小津権現山)
【登頂日】2003年11月4日
【標高】1169m
【場所】岐阜県本巣郡根尾村
【記録】】10:06 八谷橋 10:25 尾根取り付き 12:13 林道着(横切る) 12:20 林道発 13:05 北の肩 13:15 山頂着 14:05 山頂発 14:15 北の肩 14:45 林道 15:40 尾根取り付き 15:50 八谷橋