夜叉ヶ池と三周ヶ岳
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 泉鏡花の戯曲で有名になった夜叉ヶ池は雨乞い伝説の池です。そして藪山三周と呼ばれた奥美濃の山、三周ヶ岳は、夜叉ヶ池から尾根をたどって行けます。一等三角点の山頂からは深い奥美濃の山々を眺めることができます。
 三周ヶ岳の名の由来は、「あたりを三周したいほど眺望のすぐれた山、あるいは美濃、越前、近江の三国を見渡せる山」からだといわれます(白山と北陸の山)。
 池の伝説は次のような内容です。平安時代始めのこと、弘仁8(817)年、大旱魃に苦しんでいた美濃の国神戸(ごうど)の長者、安八太夫(あんぱちだゆう)は、田んぼのヘビに、雨を降らしてくれたら何でもあげようと約束します。すると、翌日には雨が降り、夜叉ヶ池の竜神が若者の姿になり、約束に娘を欲しいと言ってきます。3人の娘のうち末娘が竜神とともに夜叉ヶ池に行きました。安八太夫は、たびたび池に行き、娘に紅やおしろいを送るためそれらを池に沈めました。以来、村人は娘を雨乞いの神、夜叉姫として慕いつづける、という話です。また代々、安八太夫の子孫が実在していて、夜叉姫へのみやげとして、「べに、おしろい、くし、かんざし」を池に浮かべて雨を願っていたといいます。(現代に生きる夜叉竜神信仰、ぎふ百山)
 江戸時代、美濃の国大垣藩は、夜叉ヶ池を雨乞いの祭りとともに手厚く保護しました。夜叉ヶ池の同じような伝説は越前にもあります。夜叉ヶ池の美濃側では、神戸(ごうど)町、藤橋村、坂内村、久瀬村、揖斐川町、越前側では、今庄町などに夜叉竜神を祭る夜叉堂があります。そして全国各地から参拝者がありました。特に揖斐川流域では、この伝説にもとづいて雨乞いが行われました。その雨乞いも、大々的なものは昭和19年が最後でした。(ふるさとの行事)(雨乞棚山雷倉高賀山参照)
 伝説の由来について、新撰美濃志の河上村の項に次のような説明が載っています。「平治物語によると、源義朝の娘の夜叉御前は、兄の頼朝が平家に生け捕りにされたことを悲しみ、11歳で久瀬川に身投げしている。このことが誤り伝えられ伝説になったものである。」また揖斐郡志は、「平治物語にあるように、夜叉御前の身投げの年、天災が多かったので、安八太夫がその霊を揖斐川水源に勧請し、夜叉ヶ池と唱えたことが事実である。」と述べています。
 知り合いの神主さんに次の話しを聞きました。「石原伝兵衛の子孫の方が、今でも年に1回、夜叉ヶ池でお祭りをしている。化粧品会社がスポンサーになっていて、白粉や口紅をお供えする。そのとき鏡に顔を映すと美人になるというので、女性の参拝者も多い。池にお神酒を流したら、自然保護団体の人にすごく叱られた。年に1度降ろすお賽銭を運ぶ手伝いをした。お札も混じっていて20kgにもなるので、2人で分担してもたいへんな重さだった。」ということです。
 夜叉ヶ池への登山道は、揖斐側からも福井県側からもよく整備されています。池から三周ヶ岳へも道がありますが、やぶの中の踏み分けて井戸の部分もありました。
【参考】岡田 啓(1860):新撰美濃志、大衆書房(復刻版)
揖斐郡教育会(1924):揖斐郡志、大衆書房(復刻版)
石原伝兵衛(1972):現代に生きる夜叉竜神信仰、美濃民俗62号
岐阜県小中学校長会(1999):ふるさとの行事、岐阜県校長会館
岐阜県山岳連盟(1975):ぎふ百山、岐阜日日新聞社
林 正一(2000):白山と北陸の山、山と渓谷社

静かな秋の夜叉ヶ池
【登頂日】1993年10月11日
【標高】1292m
【場所】岐阜県揖斐郡藤橋村
【記録】10:45 林道終点発 12:00 夜叉ヶ池着 12:30 夜叉ヶ池発 13:40 三周ヶ岳山頂着 14:50 三周ヶ岳山頂発 15:45 夜叉ヶ池着 16:10 夜叉ヶ池発 17:10 林道終点着10:10