木地師に由来・六郎洞山
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 鈴蘭高原から近い六郎洞山は木地師に由来する山です(美濃の山,木曽川水系の山)。木地師のことを、「ろくろ」を使うことから「ろくろ師」ともいったからです。
 斐太後風土記には、次のような木地師の説明があります。「三郡村々(吉城、大野、益田)の深山に住み、住所は不定。トチ、ブナ、ケヤキ等の木を伐り倒し、椀形(かた)をおこし、小屋にて椀木地(わんきじ)にひきて、山に住む人を俗に木地屋とも木地師ともいえり。−−−」さらに、「先祖は、惟高(これたか)親王の臣、小椋大臣の末裔なりとて、皆小椋何某という。」あります。
 木地師は、蛭谷、君ヶ畑の二派に分かれていましたが、いずれも木地師文書と称する天皇のご綸旨や通行手形を持っていました。木地師たちはこの文書を振りかざして、山中の用材がすべて切り捨て御免でした。(以上ぎふ百山)しかし、江戸時代も後期になると、木地師といえども、自由に山林を伐採はできなくなってきたようです。(高登山ソンボ山参照)
 山国飛騨にも昔から木地師が入っており、折敷地(おしきじ)、木地屋、六郎洞などの木地師に由来する地名が残っています。
 江戸時代、享保12(1727)年、高山御役所から幕府の勘定奉行所に、飛騨の木地師についての報告がなされています。木地椀(きじわん)などの製品は、高山の町人が仲買人となって、米、味噌、塩等と引き換えに売りさばいていたことがわかります(ぎふ百山)。
 斐太後風土記には次のようにもあります。「木地師は、男女とも深山の小屋にのみ住みぬれば、日々日光に照らされず、疱瘡(ほうそう)にも犯されず、自然男女とも顔色白く、尻腰大なり。故に顔色白く腰太き女を、俗に木地屋の娘なるべしという。」
 六郎洞山へは、朝日村の鈴蘭高原スキー場の下から、阿多粕谷方面へ続く舗装林道を用います。林道の峠頂上から稜線上に刈り払いがあります(この林道は阿多粕谷側に伸びていますが途中で行き止まりです)。
【参考】富田礼彦(1873):斐太後風土記(下巻)、雄山閣(復刻版)
岐阜県山岳連盟(1975):ぎふ百山、岐阜日日新聞社
大垣山岳協会(1998):美濃の山第三巻、木曽川水系の山、ナカニシヤ出版
山頂から乗鞍岳
【登頂日】2003年5月4日
【標高】1479m
【場所】岐阜県大野郡久々野町(朝日村)
【記録】9:25 阿多粕谷方面林道辻(1350m) 9:50 地籍図三角点(1480m峰) 10:15 山頂着 11:15 山頂発 11:45 地籍図三角点 12:05 林道