源氏岳と太陽信仰
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 源氏岳(げんじがたけ)は清見村藤瀬と高山市越後谷の境界にあります。修験者、験者の「げんざ」がなまって山名になったという推測はありますが、名の由来はわかりません。(続岐阜百山) 清見村誌によると、かつて山伏がこの山で修行したという口碑があり、源氏岳は太陽信仰の遥拝所でした。
 その証拠として村誌は、清見村藤瀬の源氏岳山中に、「門岩」という遥拝所の門に相当する場所があること、かつて滝があってみぞぎの場所があったこと、藤瀬の神社の産土神が太陽神の神明神社であることをあげています。(乗鞍岳日ノ観ヶ岳参照)また源氏岳付近は、中世の頃、太陽に因む名、日出摩山と呼ばれていました。
 つまり、平安時代の寛治8年(1094年)に河上の荘(藤瀬付近)が、美濃郡上の長滝寺に荘園として寄進したという文書の中に、荘園の東の境として日出摩山が出てきます。
 やはり村誌では、土地の古老の話として、「ゲンジ」という修験者がっこの山で修行をしたので源氏岳と呼ぶと記しています。そして同じ村誌に次の伝説があります。
 三日町牧口(藤瀬の隣)に源次という手癖の悪い男が住んでいました。隣の与平次が立山詣りに出かけた留守に与平次の薪を盗み、坂を下る途中足を滑らし頭巾をなくしました。帰ってきた与平次は、源次に次の出来事を話しました。「立山の焦熱地獄で源次を見かけ声をかけようとしたら、源次は足を滑らし焦熱地獄に落ちてしまった。手を伸ばしたら、この頭巾だけを取ったけれど見覚えはないかと。」
 驚いた源次は、悔い改め自宅の裏山に本山長滝寺の遥拝所をつくり、弥陀本願にすがりました。源次は、70歳もすぎた頃、家の前の栗の木の西に向いた木の枝に二つ葉が出たら、仏様の慈悲で往生できたと思ってほしいと言って息絶えました。
 牧口には遥拝所跡が残っていますが、二つ葉のできる栗の木は戦後枯れました。(飛騨口碑伝説)また源次の墓には、「宝暦十一年(1761年)十二月十四日 釈道喜 牧口村 源次」とあります。(飛騨の民話)
 源氏岳付近が太陽遥拝所、修験道の山であったことから、「源次」の伝説が生まれたとも推測できます。斐太後風土記では、源氏ヶ岳の名があるので、江戸時代後期には定着した山名であったようです。
 源氏岳には、高山市越後谷と藤瀬を結ぶ峠の境からゲートのある林道に入ります。15番鉄塔の標識があったので巡視道に入りました。巡視路の右手斜面の岩場を直登すると大岩が現れます。ここを登り切ると山頂です。
【参考】清見村誌編集委員会(1976):清見村誌(下巻)、清見村長
富田礼彦(1873):斐太後風土記(上巻)、雄山閣(復刻版)
岐阜県山岳連盟(1993)続ぎふ百山、岐阜新聞社
小鷹ふさ(1986):飛騨口碑伝説、大衆書房
江馬三枝子(1958):飛騨の民話、未来社

送電線巡視路からの笠ヶ岳・槍ヶ岳・穂高岳
【登頂日】2002年8月31日
【標高】1143m
【場所】岐阜県大野郡清見村
【記録】11:00 越後谷の峠(林道ゲート) 11:15 15番鉄塔の標識(ここから巡視道) 11:25 15番鉄塔 11:35 巡視道から離れ岩の斜面を直登 11:50 山頂着 12:45 山頂発 12:55 巡視道 13:00 15番鉄塔 13:10 15番鉄塔の標識 13:20 林道ゲート