御祭神

靖國大神
(西南の役以降の飛騨出身戦歿英霊)
6525柱 西南の役 7柱
日清戦役 44柱
日露戦役 581柱
満州事変 20柱
大東亜戦争 5504柱
開拓義勇軍 353柱
その他 16柱
神社紋 十六葉菊紋に桜花
宮中御歌所寄人 池辺義象氏 献歌
散りさしも 匂ひは四方(よも)に かをりけり
              そのたかやまの 山櫻花
山桜

御祭神について

幕末以降、幾多の国難に殉じられた諸霊を慰霊するため、全国各地に招魂社が創建されます。
江戸時代、飛騨は天領(幕府直轄地)であったので武士がほとんど存在せず、比較的平和に明治維新を迎えますが、
明治10年の西南の役では飛騨管区にも動員がくだり、初めて軍人が出征致しました。

招魂社設立願には、靖國神社合祀者のうち飛騨出身者に限ると記されており、
設立時には、靖國神社3代宮司 賀茂百樹氏をお迎えして遷座合祀祭を執り行いました。
靖國神社側には分祀の記録はないようですが、この時「靖國神社御分霊を奉戴」したと記録され、
上杉斎次郎初代宮司からも「靖國神社の御分霊を祀る招魂社は全国にも類がない」と伝えられています。

賀茂百樹宮司は賀茂真淵先生の流れを汲む国学者でもあります。
明治42年から昭和13年まで、実に30年もの間靖國神社宮司として御奉仕されました。

当時は戦歿者のみたまを「忠魂」「忠霊」とあらわし、「英霊」よりも格上とされていました。
(本来英霊とは「特に秀でた人の魂」を指し、明治期は神社祭神として菅原道真公英霊・徳川家康公英霊と記されています)
戦歿英霊の中でも、特に靖國神社の御祭神を示す場合は「靖國大神」と申し上げました。
戦時中は当護國神社でも戦歿英霊に対して「御代靖國大神」の諡号(いみな)・神号を捧げて参りました。

由緒

祖霊社時代(神社の発祥)
明治11年8月16日神宮教中教院地鎮祭を斎行。9月には西南の役戦歿招魂祭を斎行しています。
翌年4月に中教院が竣工し、中教院管轄の神殿(飛騨大神宮)と共に祖霊社が創設されました。
祖霊社には西南の役の戦歿英霊をはじめ飛騨に縁ある功労者がお祀りされ、随時合祀祭が行われていきます。
明治32年神宮教が解散し神宮奉斎会が設立されると、神殿と祖霊社は奉斎会に管理されることになりました。
日露戦争が終結すると、遺族・在郷軍人を中心に忠霊を祀る独立した「招魂社」設立の声が挙がります。

招魂社時代
明治42年6月16日、飛騨招魂社設立が許可され、神宮奉斎会より講堂・境内地を譲り受けました。
同44年3月招魂社に専属神官を置き、5月17日には靖國神社宮司御奉仕のもと、靖國御分霊を奉祀申しました。
最終的な「飛騨招魂社」発起人は高山町長永田吉右衛門他247名、賛同崇敬者28,080戸と記録されています。

飛騨護國神社時代
昭和14年4月1日の内務省令により、「飛騨護國神社」に名称を変更。同時に本殿の造営が始まりました。
秋の例大祭でもあった11月4日深夜に遷座祭を斎行、翌5日に臨時大祭が執行されました。
敗戦後の昭和21年7月21日、神社本庁に所属認可され宗教法人となりました。
昭和14年8月、陸軍大将 林銑十郎閣下(33代内閣総理大臣)御参拝
昭和17年5月、近衛文麿閣下(34・38・39代内閣総理大臣)御参拝
昭和18年5月、真宗大谷派管長 正四位伯爵 大谷光暢台下御参拝

飛騨神社時代
神社本庁所属申請中に護国神社の名称が使えないことになり、認可即日に飛騨大神宮との合併を出願します。
昭和21年10月30日許可が下り、名称を「飛騨神社」に変更しました。
昭和27年5月、靖國神社宮司 筑波藤麿樣(藤麿王殿下)御奉幣

現在
平和条約が結ばれ、聯合軍が撤退を始めると全国の護国神社が名称を元に戻し始めます。
昭和30年9月30日当神社も「飛騨護國神社」に復称しました。
終戦から15年目にあたる昭和35年、天皇皇后両陛下より幣帛料の御下賜がありました。
御下賜に先立ち、昭和34年飛騨護国神社奉賛会を発足。41年に奉賛会は社団法人の認可を受けました。
昭和55年10月、神宮祭主鷹司和子樣(昭和天皇第三皇女)御参拝


   
天皇皇后両陛下御下賜 皇族方御参拝

昭和35年 合祀概了奉告祭に当たり幣帛料御奉納
昭和37年 岐阜県下行幸啓に当たり幣饌料御奉納
昭和40年 終戦20年に当たり幣帛料御奉納
   同   岐阜県下行幸啓に当たり幣饌料御奉納
昭和48年 岐阜県下行幸啓に当たり幣饌料御奉納
昭和50年 終戦30年に当たり幣帛料御奉納
昭和60年 終戦40年に当たり幣帛料御奉納
平成3年  岐阜県下行幸啓に当たり幣饌料御奉納
平成7年  終戦50年に当たり幣帛料御奉納
平成17年 終戦60年に当たり幣帛料御奉納
平成18年 岐阜県下行幸啓に当たり幣饌料御奉納
平成22年 岐阜県下行幸啓に当たり幣饌料御奉納
平成24年 岐阜県下行幸啓に当たり幣饌料御奉納
平成27年 終戦70年に当たり幣帛料御奉納


大正8年  東久邇宮殿下御参拝
昭和14年 朝香宮殿下御参拝
昭和18年 賀陽宮殿下御参拝
昭和19年 朝香若宮殿下御参拝
昭和40年 高松宮両殿下御参拝
昭和44年 常陸宮両殿下御参拝
平成3年  常陸宮両殿下御参拝


臨時大祭・式年大祭

明治11年(1878) 西南の役戦歿者招魂祭 2日間 9月1〜2日
明治12年(1879) 中教院大神宮 鎮座祭 6日間 4月21〜27日 伊勢神宮 落合直亮禰宜御奉仕
明治14年(1881) 中教院 大祭 4日間 5月16〜19日
明治17年(1884) 中教院大神宮 大祭 5日間 5月15〜20日
明治22年(1889) 中教院大神宮 大祭 7日間 4月22〜28日 神宮祭主御名代参向
明治34年(1901) 神宮奉斎会 神宮遥拝所 大祭 
明治44年(1911) 飛騨招魂社 遷座祭 3日間 5月17〜19日 靖國神社 賀茂百樹宮司御奉仕
大正4年(1915)  黄金神社 大祭 5日間 4月22〜26日
昭和7年(1932)  飛騨招魂社 大祭 (軍人勅諭御下賜50周年記念) 5日間 5月6〜10日
昭和14年(1939) 飛騨護國神社 臨時大祭 3日間 11月4〜6日
昭和27年(1952) 飛騨神社 式年みたま大祭(平和条約発効記念) 5日間 靖國神社 筑波藤麿宮司御奉幣
昭和35年(1960) 合祀概了奉告臨時大祭
昭和40年(1965) 終戦20年臨時大祭
  同        天皇皇后両陛下 幣饌料御下賜につき臨時大祭 (岐阜国体ご臨席の砌)
昭和47年(1972) 飛騨護國神社 式年みたま大祭 5日間
昭和50年(1975) 終戦30年臨時大祭
昭和60年(1985) 終戦40年臨時大祭
平成3年(1991)  天皇皇后両陛下 幣饌料御下賜につき臨時大祭 (地方ご視察の砌)
平成7年(1995)  終戦50年臨時大祭併式年みたま大祭 4日間
平成17年(2005) 終戦60年臨時大祭
平成18年(2006) 天皇皇后両陛下 幣饌料御下賜につき臨時大祭 (全国植樹祭ご臨席の砌)
平成22年(2010) 天皇皇后両陛下 幣饌料御下賜につき臨時大祭 (豊かな海づくり大会ご臨席の砌)
平成24年(2012) 天皇皇后両陛下 幣饌料御下賜につき臨時大祭 (岐阜国体ご臨席の砌)
平成27年(2015) 終戦70年臨時大祭

式年大祭を飛騨地方では単に「大祭」と呼び、該当神社が飛騨中の神社すべての神様をお招きするという
他に類を見ない、盛大で珍しいお祭りです。当神社は20年を「大祭」の周期としています。

岐阜県の護国神社について

昭和14年の護国神社令(内務省令第12号)を受けて、「1県1社」を目安に全国にある招魂社の整理が行われましたが
岐阜県には当神社を含め、明治2年創建の「濃飛護國神社」、昭和15年創建の「岐阜護國神社」の3社が鎮座しています。

濃飛護國神社は明治4年「官祭招魂社」に指定され、後に「内務大臣指定護国神社」となります。御祭神は西濃地区出身英霊。
岐阜護國神社は護国神社令を受けて創建され、竣工と同時に「指定」に、戦後は「別表神社」となりました。御祭神は中・東濃地区出身英霊。
飛騨護國神社は「私祭招魂社」として創立し「指定外」の護国神社となります。

西濃地区は、尊皇派として戊辰の役で大活躍をした大垣藩が中心となり早い段階から慰霊祭・招魂祭が行われていました。
大垣招魂社は県下唯一の官祭招魂社であり、昭和14年までは県全域の戦歿者を祀る招魂社の中心でした。


3社併存の理由は、軍人(陸軍歩兵聯隊)の配属先に関係しているとも言われています。
聯隊の編歴が複雑なのでココで図説してみます。(新しくウィンドウが開きます)
同じ岐阜県でも、地域によって所属する部隊が違ったので、それぞれに招魂社・護国神社の設立が望まれました。



「護国神社令」の施行に先立ち、岐阜県は既存の招魂社2社を廃して岐阜市に1県1社の護国神社を設立する意向を固めます。
これは岐阜聯隊に関係する慰霊施設が無かったたため、市内に護国神社を設立することは岐阜の人々の宿願でもありました。

ところが大垣招魂社は、貴族院議員の旧大垣藩主 戸田伯爵の尽力により「岐阜縣招魂社」として存続に成功します。
県は、岐阜護國神社と岐阜縣護國神社では神社名が類似する為、飛騨を吸収合併する前提で「濃飛護國神社」として認可しました。
岐阜県に護国神社2社の設置が決定したのが、昭和14年3月26日のことでした。

しかし、飛騨招魂社廃祀の計画については飛騨の各市町村に一切知らされておらず、まさに寝耳に水の出来事でした。
飛騨全市町村・軍人会・遺族会などから存続の願いを一心に背負った神社職員と市の担当職員は、
当時、飛騨軍人の配属先でもあった富山聯隊へ直訴を決行致します。(飛騨は昭和15年より岐阜聯隊へ配属となります)

そして、富山県庁にて富山縣招魂社の手続き一切を閲覧させてもらい、徹夜で申請書を作成。
事実上の提出期限だった3月29日に無理やり岐阜県庁へ提出することに成功致しました。
廃祀が決まっていた飛騨招魂社の土俵際の「やんちゃ」に、受け付けた県職員たちの態度はとても冷ややかだったということです。



「護国神社令」施行の4月1日以降は、必然的に祭神地域が分けられて3社が共存できるよう形が整っていきました。
当神社は旧飛騨國内の戦歿者をお祀りしている為、岐阜県内においては指定護国神社2社に準ずる扱いとなりました。
また戦後、GHQ対策として昭和21年11月に第1回全国指定護国神社宮司会が開催されていますが、
当神社は27年の第5回宮司会(第1回浦安会)より参加が認められ、全国護国神社会の末席に名を連ねることとなりました。


昭和35年、靖國神社の「終戦15周年合祀概了奉告臨時大祭」斎行にあたり、
皇室より格別の思し召しをもって、全国の旧指定護国神社にも幣帛料の御供進が決まりました。
宮内庁から岐阜県神社庁に 当神社が指定外である旨の問い合わせがありましたが
神社庁は当神社の経緯を説明して特別に御下賜が許されました。

昭和35年8月26日、岐阜県からは3社の宮司が参内して幣帛料を拝受致します。
この御下賜によって当神社は指定外の護国神社でありながら、全国護国神社52社中の1つに加えられることとなり
「岐阜県は護国神社3社を奉斎する」ということが名実共に公認されることとなりました。





  例大祭 春季例大祭  5月3日 (試楽祭  5月2日)
       秋季例大祭 11月5日 (試楽祭 11月4日)