牛首山と飛騨のドシマ
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 乗鞍青年の家のある日影平から尾根続きに牛首山があります。牛首山は、ちょうど大野郡朝日村と高山市の境界にあります。その名は、頂上付近の山の形が、牛の首のようなところから名付けられたといいます(岐阜県の十二支)。
 もともと飛騨では、原野を利用した馬産がさかんでした。しかし、昭和20年ころには、牧場の多い朝日村周辺も含めて、牛が馬よりも多く飼育されるようになりました。牛のほうが牧場地が狭くてもよいことや、経済性も高いためです。(岐阜県地理地名事典)
 さらに、大正初年ころまで山国飛騨の物流は、ドシマ(牛方)とボッカ(歩荷)が主役でした(飛騨ぶり街道物語)。
 江戸期の飛州志は、ドシマのことをおよそ次のように記しています。「飛騨は山国なので、越中美濃の両国より、荷を牛に負わせ市の度に来て、荷を預け買い出す者の総名を度市参屋(ドシマヤ)という。六度三度の市に参るというの略語である。」
 飛騨は山国だけに道が悪く、馬よりもおとなしく悪路に強い牛のほうが好まれました。ドシマは、1人で平均4頭のめす牛を連れていました。牛は57貫(1貫は3.75kg)程度を平気で運び、1日の行程は24km内外であったといいます。また街道の各所に「ドシマ宿」がありました。(飛騨ぶり街道物語)
 ドシマは、江馬 修(えまなかし)の「山の民」の中にもえがかれています。この小説は、明治維新のときおきた梅村騒動(梅村知事の改革に対して飛騨で起きた暴動)がテーマですが、その中に次の一文があります。「おもい荷役はすべて牛の背によったもので、牛こそ唯一の運輸機関であった。そのため能登や佐渡から年々多くの牛が輸入されて、ドシマ制度が発達し、殊に高山から美濃路にかけては非常にさかんで、いつも二十頭、三十頭の牛が、おおぜいのドシマに追われつつ列をなして往来していた。」
 牛首山は、乗り鞍青年の家の手前から林道駄吉青屋線に入ると簡単に登れる山です。山頂下を回る林道から、刈り払いの道を15分で登れます。
【参考】加藤迪男(2000):岐阜県の十二支、岐阜新聞社
岐阜地理学会(1978):岐阜県地理地名事典、地人書房
飛騨文化自然誌調査会(2001):飛騨ぶり街道物語、岐阜新聞社
長谷川忠崇(1745):飛州志、岐阜新聞社(復刻版)
江馬 修(1985):山の民、春秋社
牛首の名の由来となった山頂付近
【登頂日】2003年6月21日
【標高】1408m
【場所】岐阜県大野郡朝日村、高山市
【記録】14:00 駄吉青屋線林道登り口 14:15 山頂着 14:45 山頂発 15:00 登り口