高幡山と長棟峠
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 高幡山は、飛越国境、飛騨市神岡町佐古の北側にあります。佐古からは、富山県長棟に通じる長棟峠がありました。江戸期の飛騨国中案内の佐古村の項では、「御番所前を通、越中国長棟山へ行道筋あり。此間殊の外丘(きゅう)な峠道なり、字は【のた打山】と云、則国境の所なり、長棟山は右に記置候通り鉛山師共居住す」とあります。このことから、高幡山付近は、のた打山ともよばれていたことがわかります。長棟峠は、「のた打峠」ともよばれ、難路として旅人を困らせてきました。
 長棟鉛山は、寛政4(1627)年、亀谷銀山の山師・大山左平次によって開抗され、最盛期には家数300軒、山小屋800軒に達したといいます。(「越中の百山」:越中の鉱山雑誌からの引用)。長棟は、昭和10(1935)年に廃村になりました。
 一方、佐古は、江戸時代に番所があり、有峰に通じる大多和峠、山之村に通じる青木峠、そして長棟峠の交差する交通の要所でした。現在は、五戸の家があり、冬は無住になります。
 跡津川、佐古、大多和を結ぶ跡津川の谷は、跡津川断層の通る谷として有名です。跡津川断層は、日本でも有数の活断層で、富山県の立山南西麓から大野郡白川村にかけて、北東から南西方向に約60kmに延びます。安政5(1858)年に、飛騨地方に被害をもたらした飛越地震は、この断層の活動によるとされています。(アースウオッチングイン岐阜)
 高幡山へは、佐古からやぶこぎで登りました。佐古へは、神岡から国道41号線を北上し、土(ど)で右折し跡津川の谷に入ります。地図では、長棟峠道の破線がありますが、現在道はありません。破線の峠の登り口(谷)より、数百m佐古側の尾根から登れました。ちょうど野仏の裏の尾根です。林床のササや下草は少なく、思ったよりも労せず登れました。ただし、山頂部の地形はわかりにくく、見通しも無いため、稜線の伐開道(とぎれとぎれ)に出た所、山頂部の平坦地に出た所などには目印をつけ、下山時にはルートを誤らないようにしなければなりません。
【参考】上村義満(1746):飛騨国中案内、大衆書房(復刻板)
富山県山岳研究会編(1973):越中の百山、北日本新聞社
岐阜県地学教育研究会(1995):アースウオッチングイン岐阜、岐阜新聞社

山頂手前から池ノ山を望む
【登頂日】2006年9月29日
【標高】1332m
【場所】岐阜県飛騨市神岡町
【記録】9:10 佐古手前長棟峠跡 12:19 稜線 12:50 山頂着 13:30 山頂発 14:31 稜線 15:34 佐古手前野仏(自動車)