埋蔵金伝説の桑崎山
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 戦国時代、越中冨山城主の佐々成政は、織田信長から越中54万石の大名に取りたてられました。入国すると、軍資金確保のために領内の金鉱開発に全力を注ぎ、莫大な金を蓄えました。ところが天正13(1585)年、豊臣秀吉の大軍によって冨山城が包囲されると、軍用金を49個の壷に納め、密かに城から壷を出し有峰の里か桑崎山に隠しましたという伝説があります。(ぎふ百山)
 佐々成政とは、天正12(1584)年、小牧・長久手の合戦で秀吉と和議になった家康を再考させるため、厳冬期立山のザラ峠を越え黒部川に下り、また登り返した針ノ木越えで有名です。家康の家臣、松平家忠の日記の12月25日に「越中の佐々内蔵助、浜松へ越し候」と書かれています。それに伴う埋蔵金伝説の人物です。(続日本百名山)
 埋蔵金があるという「くわさきやま」は、一般に富山県の鍬崎山(標高2090m)とされています。しかし、軍用金の行方ははっきりせず、隠し場所は、平家の落人部落である富山県有峰の洞窟であるともいわれます。神岡町の桑崎山も、富山県の鍬崎山も、ともに有峰の近くにあるので、埋蔵金は神岡町の桑崎山にあるとも考えられるわけです。
 立山高原バスに乗ると、鍬崎山に佐々成政が数百万両もの軍用金を埋めた話を聞かされます(富山県の山)。また、実際に、ぎふ百山によると、軍用金捜しの老人が黒部峡谷の針ノ木谷や、神岡町の桑崎山を偵察する話が載っています。
 桑崎山の名は、地元の人によると鍬の先にできた丸みを持つ山頂の形から来ました(ぎふ百山)。山之村から見ると確かに丸っぽい山頂でした。
 さて、この桑崎山への登山路は無いとされていますが、上宝村双六谷から神岡町山之村に抜ける大規模林道沿いに営林署作業道の入口があります。山吹峠から500mほど山之村側の尾根から道が伐採されています。入口には木に赤ペンキがあります。ただし、標高1500mを越えるころからミヤマクマザサに覆われ、道がはっきりしない部分もあります。それでも、ヤブ漕ぎに比べれば楽で、1本の尾根道なので道に迷うこともありません。西方は白山から飛騨の山々、東方、すぐ近くには黒部五郎や笠が数日前の雪で白く見えました。チシマザサとミヤマクマザサが混生していて、山頂付近はミヤマクマザサ、ダケカンバ、ブナ、ネズコ等がありました。深雪に適応したチシマザサが下部にあるのは不思議です。埋蔵金は見当もつきませんでした。
【参考】岐阜県山岳連盟(1975):ぎふ百山、岐阜日日新聞社
朝日新聞社(2002):続日本百名山(針ノ木岳・烏帽子岳・赤牛岳)、朝日新聞社
佐伯郁夫・佐伯克美(1996):富山県の山、山と渓谷社
山頂付近から笠ヶ岳
【登頂日】2003年10月25日
【標高】1728m
【場所】岐阜県吉城郡神岡町
【記録】】10:30 登山口(山吹峠から500m北) 10:50 町村境尾根 12:05 山頂着 13:25 山頂発 14:00 町村境尾根 14:30 登山口