イノシシに注意・仏ヶ尾山
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 仏ヶ尾山は、益田郡萩原町にあり、下野上から尾根に沿って登山道がつけられています。この登山道に、「いのししに注意」という標識がありました。益田郡萩原町の山ぎわの田んぼにはイノシシよけの防護柵を見ることができます。
 イノシシは、もともと雪にはあまり強くない動物です。雪によって行動の自由を失い餓死してしまうからです。そのため、飛騨地方最も北部には生息していませんが、仏ヶ尾山のある南飛騨、益田郡にはかなりの数のイノシシがいると想像できます。
 今このイノシシの生息域が、益田郡の北隣の清見村に広がり、さらに北上しているといわれます(岐阜県清見村周辺におけるイノシシの分布変動と住民の対応)。最近は、飛騨北部上宝村周辺でも、捕獲されるようになりました。理由は、昭和40年代以降、雪の少ない冬が多くなったからだと推測されます(ぎふ百山)。
 もっともこのイノシシの生息域は、全国的にも江戸時代後期の小氷期にいったん南下して、その後また北上傾向でした。小氷期とは、19世紀後半、世界的に寒冷になった時代のことです。冷夏のため天保、天命の飢饉が起こったのもこの頃です。寒冬大雪の年も高頻度で現れ、大阪の淀川が結氷しました(日本の風土)。
 飛騨でも小氷期には、冷夏や厳冬大雪の年が頻繁に現れた結果、天明、天保の飢饉等が起きました。これらは、数万人単位で飛騨の人口変動にも影響しました。(飛騨における江戸時代の小氷期)
 仏ヶ尾山のふもと、萩原町JR上呂駅の近くに「鹿供養塚」という碑があります。この碑は、江戸時代後期、文化5(1808)年11月11日(旧暦)の豪雪で、シカ、イノシシが千匹以上も里に迷い出て死んだのを、村人があわれに思ってつくったものです。碑文によると、半日ほどで180cmの大雪になりました飛騨南部の萩原町は本来積雪の少ない地域です。(萩原の史跡と史話)
 比較的温暖であった縄文時代には、遺跡の骨から全国的にイノシシが分布していたことがわかります。このように野生動物の分布も気候変化の影響を受けています。(日本の風土)(猪臥山見当山参照)
【参考】中田裕一(1994):飛騨における江戸時代の小氷期、飛騨春秋
岐阜県山岳連盟(1975):ぎふ百山、岐阜日日新聞社
松井 健・小川 肇(1987):日本の風土、平凡社
浦山 佳恵・高橋 春成(1995):岐阜県清見村周辺におけるイノシシの分布変動と住民の対応、地理学評論
萩原町教育委員会(1980):萩原の史跡と史話、萩原文庫


登山道の標識
【登頂日】1995年10月10日など
【標高】1139m
【場所】岐阜県益田郡萩原町
【記録】11:00 登山口(羽根) 12:30 石碑(白山、御岳) 12:50 山頂着 13:50 山頂発 16:00 登山口