2019年度 


現在、急ピッチで執筆中!2019.10.26

 2年がかりで取り組んできた「ふるさとへの追憶3」−神岡鉱山の社宅地区(鹿間・栃洞・茂住)を、2020年3月の発刊を目指して鋭意執筆中です。今号はとても内容が多く、総ページは200ページを優に越すと思います。

 予定としては、12月中旬にはすべて原稿を完成し、以後全体の校正などをしていくことにしています。

 まだ、荒原稿ですがそのほんの一部をご紹介します。(クリックしてご覧下さい)

(ファイル容量を小さくするため、解像度を低くしています)



 「ふるさとへの追憶(三)」

栗の木平 鉱山社宅跡探索行−2
 前回に続いて栗の木平探索行です。今回は前回参加しなかったサークル員、私ともうひとりが参加しました。前回探索できなかったところも含めて再度の挑戦です。
2019.05.16 6分34秒



栗の木平 鉱山社宅跡探索行−1
 東漆山の標高約800bの山中に「東漆山村取切山銅鉛山」と呼ばれていた鉱山がありました。その鉱山は慶應2年開坑し、約60年間稼働して大正14年休山、昭和2年廃坑となっています。
 明治8年この山では坑夫111人、手子203人+149人、水替夫30人、製鉱夫36人、炭焼250人、計775人が働いていました。この他に女、子供がプラスされるので大変な人数が山に住んでいたことになります。
 明治20年三井組がこの鉱山を全山借区し操業を始めました。
 大正9年国勢調査が日本で初めて行われましたが、その統計では「栗ノ木平の1…世帯50、人口225人・栗ノ木平の2…世帯63、人口315人」計:世帯113人口540人との記録があります。
 社宅跡地にはいろいろな遺失物が残っていました。特に空き瓶が目立ちましたが、その中でもビール瓶は「右から左へキリンビールの浮き文字があり」また、そのビンに縦のつなぎ目があります。これはガラス成型の手法であり、古いものと推定できます。
 「ハイカラな器に山菜を盛って、冷たいビールを明治や大正の人達が飲んでいた」、そんな山奥での生活の一端が思い起こされます。
 この漆山鉱山は、正に三井神岡鉱山の立ち上がりの土台を作り、日本の経済も支えてきています。そんな大きな鉱山の痕跡や記憶の全ては100年の時と共に森に消えようとしています。
 撮   影 T.K氏(私たちのサークル員)  編集・構成 tappe

2019.04.13 8分43秒



五番抗探索 2019.07.10

 山之村地区班による探索に同行しました。

 大規模林道から下之本集落へ入る手前の打保谷川に架かる橋の手前から山道を少し打保谷川に沿って進みます。谷水が流れ落ちる辺りに、抗跡がありました。




 草に隠れ気をつけて見ないと見落としてしまいます。



 抗跡はすっかりふさがれています。さらにその後の道路改修で土砂止めの石垣が設けられ、抗口の上部がわずかに見られる程度です。


 このような抗跡が7個ほど見つけられました。しかもその抗口の間隔は大して離れていなくて、写真のように両手を広げた程度です。
 このような抗口は初めて見るもので、果たして抗口跡であるかどうか疑問も生じます。
 しかしながら、昭和30年頃の絵地図の位置とも合い、抗口跡であるという可能性が大きいと思います。


 抗口跡を更に少し進むと、広場に出ました。広場から川を覗くと、すぐ下が和佐府を流れる川が打保谷川に合流する所でした。(絵図の矢印)

 ここは五番抗の事務所や集積場であったことが予想されます。一面草で覆われていますが、かなり広い場所であったことと思います。

 いろいろな疑問がありますが、ここは地元の方にも今ではよく知られていなく、残念です。今後の課題です。