養老律令の中の賦役令には「凡そ斐陀国は庸調ともに免ぜよ。里毎に匠丁10人を点し、
4丁毎にかしわど(炊事係)1人を給へ。1年に1度代えよ」とあります。
これにより毎年100人ほどが1年の任期で都に赴きますが、過酷な労役の為逃亡者が続出し、
延暦15年(706)には飛騨匠逮捕令が出されます。
さらには弘仁2年(811)と5年、承和元年(834)にも逮捕取締強化の法令が出されています。
弘仁10年(819)には労役の改善が訴えられました。
「1年に360日の労役の上、病で休むと食事ももらえない」という状況だったようです。
当時は寺院建立・造宮遷都のため、建築ラッシュの真っ只中にありました。
一方「かにかくも者は思はじ飛騨びとの打つ墨縄のただ一道に」のように
一途な恋の形容にまで詠われ、その仕事振りは一般に広く認められていました。
最近の研究では、逃亡の理由は単に苛酷な労働条件だけではなく、
才能のある者が任期中に都や地方の有力者に雇われていったのではないかと言われています。
当社の発祥時代は未詳とされていますが、飛騨国分寺境内に歴代工匠諸霊を併せて祭祀・供養がされていました。
韓矢田部志和眞人大人を「木鶴神」(もっかくしん)と尊称したので、国分寺内のこの堂宇を「木鶴堂」と呼びました。
明治12年当地に中教院が創立されると、木鶴神像を残して国分寺より分離。神霊は中教院に遷されました。
しかし、政府は全国にある神社の数を減らし整理していたため、新規神社の設立は認められず、
大神宮の客神として祖霊社に祀られることになりました。以降大工組合・木匠講などによって講堂において祭祀が行われました。
明治20年7月15日神宮祭主二品 久邇宮朝彦親王殿下より「木匠祖神」の御神号を賜り、
木匠祖神を主神とし、相殿に飛騨工匠歴代の神璽と手置帆負・彦狭知2柱の神を祀ることとなりました。
古来より飛騨匠の名はあまりにも有名ですが、祖神の伝承は諸説あり不祥です。
当社は日本書紀雄略天皇の条(469)にある「猪名部眞根」を木匠祖神としてお祀り申し上げていますが、
推古朝に活躍した仏師「鞍造止利」や、天平勝寶(750年頃)に「勾猪麿」(まがりゐのまろ)と「益田繩手」が東大寺を造営、
その後、延暦年間には「韓矢田部志和眞人」(韓志和)が飛騨工匠頭に任ぜられ平安城を造営すると伝えています。
鎌倉時代以降は藤原宗安が長滝寺大講堂を造営、又藤原光延は三河国滝山寺山門を造営。
桂川孫兵衛は久津八幡神社拝殿を造営。江戸時代には水間相模守宗嗣が国分寺塔や飛騨東照宮造建など。
他に谷口與六権守、村山陸奥守、松田太衛門久勝、塩屋大和守、坂下甚吉秀冨、滝井新六、加藤長兵衛、谷口與三郎常之、
村山藤七、笠原甚七など数多の名工が簇出し、当神社に合祀されてきました。
明治の頃から飛騨匠神社造建の声が挙がっていましたが、その時期は至らず、
昭和35年になり、ようやく高山大工組合によって神社の造営が実現。翌年11月15日に遷座祭を斎行することができました。
造営時の新聞記事です。
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