祖霊殿社
御祭神 主神 大國主大神 おほくにぬしのおおかみ
配神 明治以降の
地域功労者神霊
歴代高山町長神霊
神職神霊
医師神霊
小中学校教員・夭折児童神霊
殉職 警官・消防団員神霊
軍神 海軍中佐廣瀬武夫命
国学者 田中大秀大人
法務大臣 牧野英一大人
法学者 牧野良三大人   など
神社紋 剣花菱

由緒


明治10年、高山に中教院設立が決定すると同時に祖霊社の安置も決められました。

このころ、中教院の本部であった大教院神殿のありかたについて全国で激しい議論がなされています。
これは「祭神論争」と呼ばれる日本宗教史上の大事件に発展しました。祖霊殿社はこの祭神論争の影響を色濃く受けたお社です。

祭神論争とは


明治8年に大教院が解散し、神殿は神道事務局に移されますが
その時、神殿に「大国主大神」(出雲大社御祭神)を祀るべきだという提案がされます。
神殿には「造化の三神」といわれる古事記に最初に現れる3柱の神と「天照皇大神」が祭られていました。
提案者の出雲大社千家尊福宮司は「伊勢の大神は現在の世をしろしめす神。出雲の大神は死後の世をしろしめす神。
現幽双方をまつることで初めて国内を安寧に治めることができる」と説きました。

これは日本書紀に「大国主神は幽世を主宰する」という記述がある為、
古来より神道家がさまざまな神学を唱えてきたとても難しい問題でもありました。
今までくすぶりながらも穏便に押さえてきた神道各派の教義上の対立が、とうとう表舞台で行われたのです。
さらに本居宣長は伊勢を、平田篤胤は出雲を重要視していたので、国学者の派閥の対立まで巻き込んでいきました。

そして、学者や神官、政治家までを伊勢派と出雲派に二分した大論争へと発展してしまいます。
伊勢神宮の神官に出雲派が現れるほどこの論争は混乱を極めますが、明治14年政府は「神職合同大会議」の開催を提案。
会議の結果、明治天皇の勅裁を仰ぐことでようやく終結します。
陛下は「神殿は宮中三殿の遥拝所とする」(=天神地祇すべての神を遥拝する所)というご聖断を下し、
論争は収束することになりましたが、結局のところ大国主大神を祀るという主張は通らず、出雲派は事実上の敗退となりました。
翌15年、神官の宗教活動を禁止する「神官教導職分離令」が発令されると
尊福氏は宮司職を退き、新たに「出雲大社教」を起こしました。


この事件をきっかけとして神社の「非宗教化」論が加速していきます。
神社は宗教にあらずと解釈されて、国家の管理を受けることになりました。
一方、神社を持たない神道事務局や宗教活動を行いたい人は「神道教」をはじめ現在の教派神道を組織していきました。
これが「神道は宗教、神社は非宗教」という認識が生まれた発端でもあり、いわゆる「国家神道」体制の始まりでもあるのです。


明治12年9月祖霊社を設置し、大國主大神を勧請して招魂祭を斎行。
明治15年の教導職分離令により神職の葬儀関与は禁止されましたが、
当中教院は宗教団体である神宮教に属したため、宗教教化活動として神葬祭・祖霊祭の普及活動を行いました。
この頃から神宮教解散までの17年間は一般の方の神葬祭も頻繁に行っており、数柱が祖霊社に合祀されています。

神宮奉斎会になると「奉斎所に於て霊舎を設け祖霊を鎮祭すべからず」の通達があったため、
社殿を廃し、奉斎所の横に霊璽(神式の位牌)を安置する棚(氏祖殿)を設けて祭祀を続けました。
この通達になかなか従わない県本部や支部があり本院は苦慮していますが、当社もまさにその一つであったようです。
以降葬儀は行わないものの、各団体より要請を受けた場合のみ合祀・慰霊祭を行っていきます。

地域功労者として西南・日清の役戦歿英霊を合祀していることから、日露戦争中は出征軍人には御符を配り
戦勝祈願祭や軍人健康祈願祭を執り行うなど、招魂社としての性格を持つようにもなりました。
明治42年6月、飛騨出身の戦没英霊を飛騨招魂社に遷座。(廣瀬中佐は飛騨出身ではない為、氏祖殿に残されました)

戦後、神宮奉斎会の解散時に氏祖殿から祖霊殿に名称を変更。
昭和36年11月、飛騨匠神社造営により、客神としてお預かりの木匠祖神を遷座。
平成5年、忠孝苑合祭殿新築の際、新たに社殿を造営し祖霊殿社として遷座祭を斎行致しました。


祭神論争に敗退以降は主祭神であった大國主大神が表に出ることはありませんでしたが、
昭和28年に始まった黄金神社の「こがね講祭」では客神「大黒天」として招かれ、
祭典後の大抽選会では「福」を参拝者にお授けしています。


例大祭   無  各種団体により慰霊祭を斎行